物語の死に憂愁を 再誕に万雷の喝采を
この文章を読んでいるということは、先日の『物語が殺される』云々のツイートや話題に触れた可能性の高い方かと存じます。その続きと私の本心を綴るので、閲覧にはご注意くださいね。といってもそんなにネガティブじゃないですよきっと。まぁ知名度も実績もない傑作を書くだけの偏屈な変人の戯言です。
元ツイート文章は以下
↓
あえて強めの言葉を使いますね
演者の姿勢と技量で台本と物語は死にます
ボイコネにあげてから、私の物語は殺され続けて来ましたしきっとこれからもそうなんだと思ってます
私というライターが生きてるのは単純に私が残機無限の無敵超人なのと、ほんとごく稀に巡り会う神回で蘇ってるからです
以上
これは私みたいな知名度のない偏屈な人間が、「あえて~」という枕詞をいれるからまぁ流れるやろと思っていたのです。界隈で知名度の高い人がクッション言葉も無しに使うとそりゃセンシティブにもなりますよぉ!と思いましたし実際言い出しっぺの私よりもRTして発言した方のツイートの方が波紋を呼んでいたように思います。これは責任の転嫁とかではなくて、なんか・・・すんません!という想いでして。。。まぁこれが知名度と影響力の差だなと思い知りもしましたけど(笑)ツイ消しは正解だったと思います!ナイス判断です。まぁ私は消さないですけど(懲りない)
本題です。
この発言に関してそんなネガティブにならなくてもいいじゃんとかお前何様だよとかってのはもちろんあると思いますし、私も「あえて」と申し上げているとおり、殊更に強い物言いがしたいわけではないのですが、せっかくなら皆さんにこの際言ってしまうのもいいだろうと思いここに筆を執りました。仮にも作家なら作品で示せ、とも思いますが、その辺はボイコネにもある拙作「Porter」をご一読ください(さりげない宣伝)。
この発言に際し、真面目なキャストは萎縮し、ライターは「楽しんでくれればいいよ」というポジティブな側面に意見が収斂すると思います。ライターさんによっては物語が死ぬなんてことはない、というお考えの方もいらっしゃって、とても素敵なことだと思います。これは皮肉とかではなく、そう信じられる環境にいて、物語を愛し、愛されている証左だと思うから、心底いいことだと思ってます。
それでもあえて申し上げます。
物語は、演者の姿勢と技量次第で死にます。
これについては、考え方の相違なので、理解してほしいとかではなくってふーんくらいに思っていただけたらいいのです。押し付ける気もぜーんぜんないしボイコネにおいては割と特異で傲慢な考えだという自覚はあるので。
はい、この先も「あえて」強めの語句を使いますからね~あんまり影響されすぎないでくださいね~
~死ぬって言ってるけどそもそも物語ってなんだろうと考えてみる~
まず、物語、今回で言えばボイコネに投稿する台本やシナリオをどのようにとらえているか、そしてそれがどう取り扱われているか、結果としてどのように落ち着いているのか、そこが恐らく違うと、違う結論に至るのかなと考えてます。
そも、ボイコネは声劇アプリです。キャストが遊ぶための場所で、そこに主眼が置かれている。当然のことです。シナリオ投稿機能なんてなくたって声劇出来るサービスは他にもあるのだし、実際そのための場所です。ライター側からしても、『使ってくれてありがとう!楽しんでもらえたら幸いです!』の気持ちの方が大多数だと思いますし、自分もそう思ってます。知り合いのキャストやまだ見ぬ演者さんに使ってほしい、遊んでほしい、何か感じ取ってほしい、自分の世界を肉声で表現してほしい、とかが、ボイコネライターの皆さんの執筆動機ではないでしょうか?まあ実際に聞いたわけではないのでよくわかりませんけど。
ただ、私の執筆目標というか、その台本の届け先のウェイトは少しずれてるのです。
私は、台本を使って上演する場所である以上、一番楽しい思いをするのは観客なのが普通なのでは?と思ってきました。だって世間一般そうじゃないですか。でもボイコネはキャストが主役なので、やってる本人が「楽しい」を優先していい場所なんですよ。そこに否定的な考えはないです。聞くのに金払うわけでもないので、やっててたのしいは一番大事です。
でも、自分がいざ執筆するとき、やはり最終的に考えるのは、その物語を最後に受け取る聞き手のことなんですよね。だから、演者ももちろん上演前は一読者ですが、ひとたび上演を始めたならシナリオに対してはお客さん気分じゃなくて「作者と一緒になって観客を楽しませる側」に立ってほしいなぁ~と、期待しちゃうわけです。(私の場合は)書き手には伝えたい何かがあって、それを物語という作品にしているのですが、演者が作品のテーマ性などを度外視して自分のやりたいようにだけやってると、そこが果たされなくなる。作者の想定したクオリティというのが高いほど、演者には相応の技術と姿勢、覚悟が求められるのは当然ですが、技術が足りない以前に心の向きが定まっていないのなら、物語は死ぬほかないです。だって演者がそれを届ける気がないのなら、書き手の想いが届くはずはないのです。
私にとってのボイコネ台本、物語とは、演者が楽しいは前提であって、その日何気なくボイコネをインストールした人がたまたま聞き始めた枠で視聴した私の台本の上演が、いい意味で生涯忘れられないものになってほしいという願いの結晶なのです。
おっも。ボイコネに期待しすぎだしお前はそんな傑作書いとるんか?といわれたらまぁ頑張ってますけどぉ。。。としか言えないんですけどぉ。。。観客のこともいいけど演者のことも考えろよな~っていわれたらアッハイ…ですけどぉ。。。いや、難読漢字とか言い回しが難しいのはしらんよ。演者の頑張りどころでしょそこは。
~物語が死ぬってなんだろう~
人類の歴史にまだ文字記録媒体がなかったころにも、伝承はありました。物語(narrative)は語り部(narrator)によって物語られることで、聞き手に影響を与えて時代を渡ってきたのです。物語は、物語られることで初めて産声をあげる。つまり、語られもしない物語は生まれもしていないので、物語が死ぬのは、いつだって誰かに物語られた時なのです。
私は、物語が誰かによって物語られるとき、必ず死ぬと思ってます。
語り部は作者ではないので、そもそも書き手の想定を100%捉えることは不可能だからです。どうあがいても、物語られる物語には語り部の主観が入る。そこに、書き手が伝えたかったことがどれだけ残るか、語り部が上乗せした要素がどう作用するか、その結果として、物語が死んだままとなるか、新しく生まれなおすかが変わってくる、と私は思うのです。
民間伝承が口伝で物語られてきたように、命が歴史を織りなすように、DNAが必要な情報を転写して世代を超えるように、死に、生まれ、形を変え、それでも残る物語には、やはり強い物語性があるのでしょう。
そして残念ながら、ボイコネは死んだままだったり、再誕したとは言い難い結果になることが多い。それもそのはず複数演者の掛け合いを稽古無しでやるのだからそんなにバンバンいい結果が出るわけがないのです。これはまぁ個人的には私の台本の性質もあるのですけどね。だから私ボイコネに向いてないんですよ。こういう発言もしちゃうし。みんなで楽しく気軽に声劇!って輪の中に入れない異物なのです。
さて、今回の「物語が殺される」については、『使ってもらってありがたいのに台本が雑に扱われたり技量の及ばない演者に使われたくらいで殺されるなんて大げさだ』という旨のご意見も至極まっとうだと思いますが、私とて気軽に『殺される』なんてワードを使ったわけではないのですよ~という一定の意思表示をしておこうかな、というところでした。
私にとっての物語というのは観客の心に深い爪痕を遺して初めて『生きる』ので、それ以外は全部死んでるもんだと思ってます。でも、ボイコネという居場所においてはそれで全然いいんだよ~やってるキャストが楽しいと思えることが大事なサービスなんだから、そこは全然いいんだよ~ただ、私が勝手に期待してるだけだから、これからも私の物語を殺し続けてキャストが楽しい時間を送ってくれるなら全然構わないよ~、ということです。
でも、いつか、もし、私の物語を聞き手の心の中に産み落としてくれる上演に巡り合えたなら、私は感謝を込めて、盛大な拍手を送らせていただきたな、とも思ってます。
物語の死に憂愁を 再誕に万雷の喝采を
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