ご来場の皆様へ【独演台本】

一人読み 20分台本 

舞台の上でスポットライトを浴びる一人の演者が、客席に語りかけるような独演を披露する。

人とは、人生とは、社会とは、役割とは。


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以下本編

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かつて、かの有名な劇作家はこんなセリフを遺した。

 『この世は舞台、人はみな役者だ』

 

 いい言葉だと思いませんか。

 

 今、私は舞台の上からあなたたちに語りかけていますが、客席にいるあなた方もまた舞台の上の役者なのです。それも一人が担う役は、一つではない。

 

 先ほどの引用に続くセリフで、シェイクスピアは人の一生は七役あると記しています。

 

 赤ん坊から老人に至るまでの人生の移ろいを、七つの役に当てはめたのです。

 

 しかし、私はこう思うのです。人は、共演者の数だけ役柄を持つ、と。

 

 人は社会的な動物です。他者とのつながりの中に、自分の居場所を見出す。

 

 そして、そのつながりや所属ごとに、人には役割がある。

 

 例えば、家族と接する時と、職場の上司に接する時、同じように振舞う人はほとんどいないでしょう。

 

 同様に、先輩、後輩、友人、隣人、恋人と、あなたはあなたという人生の舞台上で、共演する相手によって役割を変える。演じる自分を変えているはずです。

 

 あなたはあなた以外の何物でもないが、あなたを認識する他者からすれば、まるで別人のように見えることもあるでしょう。

 

 だからこそ、人はみな、役者なのです。

 

 マズローの法則、というのをご存じでしょうか。人の欲求を欲する順番に整理したもので、5段階の欲求があるとされています。

 

 まず、生理的欲求。食欲や睡眠欲、性欲といった三大欲求をはじめ、呼吸や排せつなど、およそ生命としての活動をするにあたって当然と言えるようなものがここに分類されます。

 

 続いて、安全の欲求。身体的にも経済的にも安全でありたいという欲求です。これも、ある意味生物として当然の本能的な欲求と言えるでしょう。

 

 そして次に満たしたいと思う欲求が、社会的欲求。集団への所属や、自身の存在を肯定してくれる他者を求める欲求です。

 

 そう!我々人間は、己(おの)が生命の安全の次点に、他者とのつながりを求める生き物なのです。

 

 なぜ人はみな役者という話から、人の欲求の話になったのか。お判りでしょうか。

 

 人は、その欲故に、役者となるからです。

 

 他人とうまく付き合いたい。ここに居てもいいのだと安心したい。そうした欲が、人間関係を円滑にするために、あなたの役者としての能力を引き出そうとするのです。

 

 目上の人に敬意を表し、親しい友にやわらかな笑みを浮かべ、愛する人を抱きしめる。

 

 互いの居場所を確かめ合うように、役割を演じる。他者とかかわることで、自分の存在を確立する。

 

 それが人の欲求からくる、適応なのです。

 

 一見して相互的でない場合もそうです。ボランティアなど、他人のために行動しているように見えても、それは結局、自身の欲求を満たす行為に他ならないのです。

 

 おっと。こういう言い方をすると、人の好意を偽善呼ばわりするのかとお叱りを頂いてしまいそうですが、そうではないのです。

 

 情けは人の為ならず。無償の愛や善意からの行動を人間が取ること自体が、巡り巡って個人の利益になるような仕組みになっている、ということです。その仕組みこそが社会と呼ばれるシステム。我々人間が、長い歴史の中で積み重ねてきた規範なのです。

 

 さきほど申し上げたとおり、我々は社会的な動物です。社会に疎外されては、生きてゆけません。

 

 さて、人は他者とのつながりを育むために役者としての能力を引き出されている、というお話でしたね。ここでひとつ、人間が役者であるという私の言葉を、より皆さんに納得していただくための材料を提示しましょう。

 

 皆さんは、人の意志がもっとも強く表れる身体の部位と聞いて、何を思い浮かべますか?

 

 心臓?脳?あるいは指先?私の答えは、目です。

 

 『目は口程に物を言う』『白い目で見る』『目を白黒させる』など、目にまつわる慣用句は、人の心情を表すものが多くあります。実際、マスクで鼻から下が隠れていたって、人は目つきだけで感情を表したり読み取ったりすることが出来るでしょう?

 

 そして何より、人が役者であることの裏付けになっているのは、白目なのです。

 

 数多居る生物の中で、人間だけが白目を持っている。いったい何故なのか、考えたことはありますか?

 

 それは、視線を明瞭に認識するためだと言われています。目つき同様、どこをどんなふうに見ているのか、その意思表示が、人間という生き物にとって重要だったのです。

 

 つまり、人間という生き物は、歴史や文化に後付けされた言葉や文字がなくても、己の意志を表現する器官を持って生まれるのです。

 

 同じく目を持つ動物は数多居ますが、それは見るためのもの。目を、示すために使うよう機能を拡張したのは、人間だけです。

 

 なればこそ、人はみな、生まれた瞬間に演じることを許される。劇作家のいう詩的な表現に留まらず、人は真に、皆(みな)役者足り得るのです。

 

 

 

 ここまでのお話で、皆さんには人が役者であるという話はご納得いただけたかと存じます。では、お次は役の話です。

 

 この世に数十億の役者がいるのなら、況(いわん)や舞台と演目、役の数などそれこそごまんとあるに相違ございません。

 

 人はまず、子という役をあてがわれる。同時に、孫、甥や姪、妹か弟という役を与えられる場合も多々あるでしょう。

 

 あるいは名前ももらえず、施設に預けられたり、路肩に打ち捨てられる悲劇的なスタートを迎える人もいるかもしれません。

 

 そうして人は、産声と共に舞台に上げられる。時を重ね、親族や友人という共演者と一緒に上演を続けることになります。

 

 こと人生という舞台に下積み時代なんてものは存在しません。あるのはただ世界という舞台装置と、生まれ持った肉体のみ。

 

 人という役者は、生得的(せいとくてき)な肉体と才能、そして周囲の環境によって、役をどんどん変質させていくのです。

 

 人はみな役者だが、誰もが名優になれるわけではありません。遺伝子という名の設計図には、演者としての向き不向きが書き込まれているでしょうし、後天的な周囲の状況は、必ずしも望ましいものばかりとは限らない。

 

 愛想笑いが上手にできるか、他人の視線に敏感か、教え導いてくれる共演者が傍にいるか、置かれた状況が社会と疎遠(そえん)なのか。

 

 様々な要因が、その人がどんな役者になるのかを左右するでしょう。

 

 そうして家庭から近隣、幼稚園や保育園、学校へと、成長するにつれてより大きな社会に溶け込んでいく。

 

 次第に、新たな役を獲得していく。お隣さんや幼馴染、友人、教師、先輩、後輩と、新たな肩書を背負っていく。

 

 さて、ここまでくれば、もう皆さんも当事者です。冒頭申し上げたとおり、あなたは接する相手によって役割を変えるようになる。言葉遣いを、目つきを、声音を、姿勢をかえ、その相手とのつながりに相応しい演技をする。これを役者と言わずして何と申しましょう。

 

 裏表があるとか、腹黒いとか、八方美人だとか、そういう話ではないのです。社会という規範の中で、所属する集団ごとに相応しい役割を持ち、それを演じている。それを当たり前にやっているのが、我々人間なのです。

 

 

 

 ところで皆さんは、自分の役割に不満を抱いたことはありますか?

 

 身体的なコンプレックス、というのもあるでしょうが、私がこれからお話したいのは、あくまで演じる役割についてです。

 

 

 

 実は上司にガツンと言ってやりたいことがある、実は恋人に直してほしいところがある、実は親しい友人に隠している本音がある、とか。

 

 本当はこんな自分から変わりたいのにと、望んではいるけれど踏み出せずにいる。そういった、今の役割を続ける上での不満です。

 

 先ほどまでのお話でご理解いただけたかもしれませんが、あえて申し上げましょう。

 

 役割の多くは、社会によってあなたに与えられたものです。

 

 他者とのバランスの中で、あなたに課せられたものです。

 

 であれば、不満だってございましょう。

 

 ただし、社会の中でうまくやっていくというのは、取りも直さずそういった不満に折り合いをつけていくということです。

 

 だから、あなたにもし不満があったとして、それを変えるためのアクションを起こすことが、必ずしも良い結果を招くとは限りません。

 

 マズローの法則、その二つ目の欲求を覚えていますか?そう、安全の欲求です。

 

 本来の意味とは少し異なるかもしれませんが、人はリスクを避けるものです。

 

 自分が一歩踏み出して舞台装置や共演者に物申しても、それで組織や関係に悪影響が出るかもしれない。そう思えば、人は多少の不満があっても、自分の役に甘んじるものです。

 

 実際、多くの人がそうして社会は成り立っています。誰もかれもが自分勝手に生きていては、規範は成り立たず、社会は瓦解します。

 

 

 

 しかし、変化やリスクを恐れ、与えられた役割を演じているだけで、果たして本当に良いのでしょうか。

 

 あなたという役者が演じ、あなたの名前が演目であるその舞台は、リバイバル上演されることはありません。たった一度きりの、この世界という舞台で唯一無二のステージ。

 

 どんなに願っても、たった一秒前にさえ戻れず、とちったセリフの読み直しも利かない。

 

 そんな中、終幕までの無慈悲な時の中で、あなたという役者は何を表現し、何を遺すのか。

 

 舞台の上であなたと共演している人は皆、共演者であると同時に観客なのです。

 

 あなたが演じる様子を見ている誰かが、必ずいます。

 

 あるいはあなたがそうだったように、あなたの演じる様子が誰かの役者としての成長に影響しているかもしれない。

 

 あなたの幕が下り、舞台袖に下がった後も、共演者たちは同じ場所で上演を続けるのです。

 

 であればこそ、あなたが与えられた役割に沿って円滑に社会を回すか、あるいは社会という舞台装置に変革をもたらすか、その選択はあなた自身と、共演者たちに大きく影響するのです。

 

 役割をこなすこともまた重要であり、しかしあなたの後悔を取り除き、より良い未来を得るには、与えられた役割以上の変化をあなた自身が起こさなくてはならない。

 

 他者を尊重し、自分の要求も叶えたい。このバランスが重要なのです。

 

 その自他の欲求のバランスを取るための道具こそ、演技に他ならない、と私は思うのです。

 

 人は、他人と真の意味で分かりあうことは出来ません。出来るのは、分かり合おうと努力を重ねることだけ。

 

 相互理解のための意思表示の方法、コミュニケーションの土台にあるものこそ、演技力、表現力です。自分が何を伝えたいのか、相手が何を伝えようとしているのか、あらゆるコミュニケーションにおいて、人は演じているのです。

 

 よって、あなたがどんな役者なのか、どれほどの表現力を持ち合わせているのかで、あなたという演目がどんな結末を迎えるかが変わってきます。

 

 同じ結末を望んでも、それを叶えられるかどうかは、役者の技量に左右されるのです。

 

 ただ、何を望むか、何を表現しようとするかを選ぶのもまた、あなた自身。

 

 つまり、人は皆役者であり、自分専属のシナリオライターでもあるのです。

 

 所属する集団や与えられた肩書という世界の舞台装置にそって演じることを求められる一方で、あなたの一挙手一投足や発するセリフは、あなた自身に委ねられている部分が確かにあるのです。

 

 あなたが何を望み、何を願い、何を共演者に伝えるか。その相互作用で、舞台が進行していく。

 

 さながら即興劇のように、終着点が定まっていない物語を紡ぐのが、人生という舞台なのです。

 

 

 

 

 少し、ややこしい言い回しになってしまいましたね。

 

 私が申し上げたいことを、劇作家風に気障(きざ)っぽく言うのなら、『より良い人生を望むのなら、より良い役者でなければならない』といったところでしょうか。

 

 今日のところは、この言葉を私からの贈り物として、皆様への祝福と共に、この劇も終幕とさせていただきましょう。

 

 ご来場の皆様へ!ようこそ!この醜くも麗しい、世界という名の舞台へ!

 

 人として生まれた瞬間、あなたは役者となった!

 

 貴方という役割は、貴方にしか演じることの出来ない唯一無二の役柄だ!

 

 社会に与えられた役を演じるのか、それとも、己が欲する役を演じるのか。それはあなた次第です。

 

 正解はない。そこにあるのは、選択の自由と責任、そしてその結果としての、貴方という演目の結末。

 

 より良い明日を望むなら、より良い舞台に立ちたいのなら、貴方が掴み取ればいい!

 

 貴方の望む、貴方という役を。

 

 貴方の演じる舞台の幕が下りるまでは、まだ幾何(いくばく)かの時間があるのですから。

刹羅木劃人の星見棚

一つの本は一つの世界、一つの星。

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