夏目玲子の回帰~虚空の参道~

ミステリー声劇台本

所要時間 90分前後

男2 女3

登場人物(詳細は別資料 作者個人サイトにあとがきを掲載 https://seragikakuto.amebaownd.com/posts/56289216)

■夏目 玲子 (なつめ れいこ)

二十七歳 女性 寂れた雑居ビルに探偵事務所を構える残念美人。警察と委託契約を結んでおり、難事件の解決を行うこともある、諮問探偵。

■有栖川 倫太郎 (ありすがわ りんたろう)

二十歳 男性 玲子の助手 普通すぎて変な男子。

■森久保 明美 (もりくぼ あけみ)

四十二歳 女性 玲子の事務所のビルオーナーで一階に半地下の喫茶店を構えている。玲子の叔母で育ての親。

■相座 美波 (あいざ みなみ)

二十三歳 女性 明美の喫茶店の常連で近所付き合いもある。妊婦だが、頼れる親類は居ない。

■過生 錠愁 (かせい じょうしゅう)

四十~五十代 男性 最近明美の喫茶店に通い始めた客 営業職で、エリアの配置換えでこの地域に来ることになった。

 

名前だけ登場する人物

眞道 灼 (しんどう あらた)

二十七歳 男性 玲子の幼馴染で警察官。常陽度の高い事件の捜査に行き詰ると玲子を頼る。

一条 真 (いちじょう まこと)

二十七歳 男性 眞道 灼の同期で、別部署の警官。

教授

???

【ご注意】

この台本はミステリー部分の内容に関し、妊婦さんが悲惨な目に遭う描写がございます。

胸糞悪いまま終わるようなお話ではないですが、閲覧の際にはご注意ください。

また、前作『夏目玲子の憐憫~21gの行方~』の続編となります。

こちらの『回帰』だけでも楽しめますが、キャラクター詳細や描写において本作だけでは読み取れない部分もございますので、ご承知おきください。

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ト書き:倫太郎モノローグ


有栖川倫太郎:ふとした時、あの頃にかえりたいと思う。

難しいことを考えなくてよかったあの頃。

ただ友人たちと、思うまま遊んでいたあの頃。

漠然と広がる未来に、無責任な期待と無根拠の希望を抱いていられた、あの頃。

別に今だって、難しいことを考えられるほど賢くなったわけじゃない。

特別にやり直したい過去があるわけでもない。

これまでの積み重ねを否定したいほど、僕は僕を嫌ってはいない。

それでも、ふとした時、あの頃にかえりたいと思う。

具体的にいつとか、はっきりとどことかは無くて、ただ何となく、あの頃に戻れたらって。

そうして、たった一秒前にさえ戻れないことを思うと、少しだけ寂しくなる。

この寂しさの正体は知らないけれど、大抵の人はきっと、その虚しい温度を知っている。

あの人は、その寂しい温もりを、知っているだろうか。

その熱を、感じたことが、あるのだろうか。



ト書き:場面転換・現在・夏目玲子探偵事務所を構えているビルの一階にある喫茶店。入口から段差を降り、店内は半地下。

ト書き:『喫茶ティアテル』 どこにでもあるような、でも探すとそんなに見つからない、ノスタルジックな喫茶店

ト書き:ドアが開き、からんころんというドアベルの音と共に、一人の女が入店する


夏目玲子:「ふぁーあ」

森久保明美:「はぁ。あんたねぇ、人の店に入って来るなりあくびってのはなんなのよ」

夏目玲子:「生理現象なんだから仕方ないだろう。あと、この店の雰囲気のせいだ。薄暗くてぼやっとしてる」

森久保明美:「落ち着きがあってノスタルジックって言いなさい。ほんっとに風情のない子だね」

夏目玲子:「感傷は子宮に置いてきたのさ。それより明美さん、ロブロイちょーだい。マッカランならこの前灼が買ってきたのが――いや、あれはもう空か」

森久保明美:「うちは喫茶店だよ。だいたい、あんた既に酒臭いじゃないの。営業妨害よ。さっさと上に引っ込んじゃいな」

夏目玲子:「それがねぇ」(入口から一番近いカウンター席に座る)

森久保明美:「なに?また倫太郎君に追い出されたの?」

夏目玲子:「私が居ると掃除が終わらないから部屋がきれいになるまで原因菌は入室拒絶、だそうだ。まったく、人を汚れを生み出し続ける菌類呼ばわりとは」

森久保明美:「100%玲子が悪い」

夏目玲子:「おっと、100%だって?それは聞き捨てならないなぁ。この世の中には絶対なんてそうそうないんだよ明美さん」

森久保明美:「追い出される寸前、あんた何やった?」

夏目玲子:「倫太郎君が、散乱した私の衣類を回収したばかりのソファに脱いだシャツを放り投げ、ゴミを出し終わった後に酒瓶を転がして、ポテチを食べようと袋を開けたらぱーんってなって全部飛び散った」

森久保明美:「ほら見なさいあんたが悪いじゃない。人が片付けてるすぐ横で散らかすなんて、よくもまぁそんなことが出来るもんだわ」

夏目玲子:「まぁ待ってくれ。倫太郎君が来る前の散らかり具合を10とするなら、片付けた時点で0、見事なものさ。そこに新たに登場した私のシャツと芋の薄揚げ達を合わせても3だ。相対的に見れば彼は7の仕事をやり遂げていて、家主であり雇用者でもある私はそれに大変満足しているのだから何の問題もないさ」

森久保明美:「あんたは0を3にしたんじゃなくて、倫太郎君の善意を無に帰したの。はぁーーほんっとに情けないわ。いい歳した大人が学生におんぶにだっこで、みっともないと思わないの?」

夏目玲子:「思わないね。むしろ感謝してほしいくらいだ」

森久保明美:「感謝?探偵業の助手で雇っておきながら社会不適合者の介護をやらされている憐れな倫太郎君が、あんたに何を感謝するって?」

夏目玲子:「こんな美人の身に着けていた衣類を弄ぶチャンスなんて、一介の平凡男子学生にはまず巡ってこない稀有な機会じゃないか。どうせ倫太郎君が洗濯するのだから、その間に若く青い情熱を私の肌着に吐き出すようなことがあったとしても私は何とも思わな――」

森久保明美:「思いなさいよこの破廉恥残念非人間!」

ト書き:明美、玲子の頭を叩く

夏目玲子:「いった。ちょっと明美さん!この頭蓋骨に詰まった灰色の細胞たちは私の貴重な商売道具なんだから、丁重に扱ってくれないと困るよ」

森久保明美:「今ので死んだ細胞の分空きができたでしょ。貞淑って単語をねじ込んどきなさい」

夏目玲子:「残念。概念だけは既に知ってるんだ。それにしても、相変わらず客のいない店だね」

森久保明美:「馬鹿おっしゃいな。喫茶店が常日頃から満員御礼でやれるわけないでしょ。こういうのは雰囲気が大事なんだから、がらんどうなくらいがちょうどいいのよ」

夏目玲子:「営業努力を怠る言い訳にも聞こえるね」

森久保明美:「強がりじゃないわよ。忙しない日常を送る現代日本の社会人に、一時の安らぎと望郷を。ふと思い立った時に、今を忘れて思い出に浸れる場所。この店はそれがコンセプトなんだから」

夏目玲子:「郷愁、懐古、静寂。まあ、理にかなってはいるよ。特に、半地下を活かした照明の当たり具合とコーヒーに混ざった古本屋のような古紙の香りのバランスが――」

森久保明美:「ちょっと。なんでも分かる賢さはあんたのいいところなんでしょうけど、何でもかんでも暴くのは無粋ってもんよ」

夏目玲子:「おっと、これは失敬。解体するのは、人の産み落とす謎だけにしておこう」

森久保明美:「それに、よく御覧なさいな。奥の席に一人お客がいるでしょ?騒がしいのはここまでよ」

夏目玲子:「ん?ほぉ、これはこれは。いや、失礼してしまったな。失礼ついでに聞くが、あの男性は常連かい?」

森久保明美:「いいえ。でもここんとこ毎日お越しになってるわね。常連候補ってとこかしら。初めて来店したのは1週間くらい前ね」

夏目玲子:「なるほどね」

ト書き:明美、カウンターに座って新聞を読んでいる男性客に向かって声をかける。玲子の席から5席離れたところに声をかけるようなイメージで

森久保明美:「ごめんなさいね、過生(かせい)さん。うるさいのが降りてきちゃって」

過生錠愁:「いいえ、構いませんとも。静かなのもいいが、別嬪さんが揃ってからころ賑やかなのもいいものです」

森久保明美:「あら、お上手」

過生錠愁:「コーヒー、もう一杯いただけますかな?」

森久保明美:「同じもので?」

過生錠愁:「ええ」

ト書き:明美、過生のカップを下げてコーヒーを入れる準備に入る 玲子、席を移動し過生の近くへ

夏目玲子:「過生さん、とおっしゃったかな?静謐な休憩時間をお邪魔して本当に申し訳ない。申し訳ないついでに、相席、よろしいかな?」

過生錠愁:「ええ、もちろん。どうやらお時間を持て余しているご様子。一人の時間もいいが、話相手のいないコーヒーブレイクは退屈でもありますからな」

夏目玲子:「おっしゃるとおり。私はこの上の階に事務所を構えている夏目玲子という者だ。この店にはふらっと顔をだすが、過生さんは――外回りのお仕事の寄り道、か」

過生錠愁:「そんなところです。改めて、過生錠愁(かせいじょうしゅう)と申します。営業職をしているのですが、先月この地域の担当に配属されましてね。この歳になると動き回るのも大変で、このお店には休憩がてら寄らせてもらっておるのです」

夏目玲子:「なるほど。このご時世に現場の営業とは、ご苦労も多いことだろう。夏は暑く、冬は寒いうえに、昨今は住宅街を歩き回るだけで不審者扱いされかねない」

過生錠愁:「そこはまぁ、そうしなければ回らない仕事ですからな。ところで、夏目さんは事務所とおっしゃいましたが、差し支えなければご職業を伺っても?」

夏目玲子:「探偵をやっている」

過生錠愁:「ほぉ、探偵!探偵さんにお会いするのは初めてだ。とすると、人探しや不貞調査、まさか、殺人事件の捜査協力などもされるので?」

夏目玲子:「いろいろだよ。とはいえ私の場合は、あなたと違って外を歩き回ることは少ないがね」

過生錠愁:「なるほど……頭脳明晰、飛耳長目。すべてを見通す探偵とは、さながらドラマの登場人物のようだ」

夏目玲子:「だが、ドラマになるほど面白い事件というのは中々起きてくれないものでね。私は常に退屈を如何にして殺すかを考えているほどだよ」

過生錠愁:「探偵ほど殺しの手段に精通した職業もないかもしれませんなあ。しかしその貴女が殺しあぐねているとなると、手ごわい難敵のようで」

夏目玲子:「退屈は人を殺すという。私は退屈と殺し合いをしているのさ」

ト書き:お代わりのコーヒーを持ってくる明美

森久保明美:「おまたせしました」

過生錠愁:「ああ、どうも。では、名探偵さん、こちらの事件はいかがです?」

ト書き:先ほどまで読んでいた新聞の紙面を示す過生

過生錠愁:「妊婦の連続殺人事件。先日からメディアはこの話題で持ちきりです。身籠った妊婦のお腹を割いて胎児ごと殺害、二人続けて同様の手口で犯人は未だ逮捕されていない」

夏目玲子:「ああ、その件か。気にはなっているが、恐らく私の仕事にはならないだろうね」

森久保明美:「これ、玲子のとこには依頼きてないの?二件目の現場、割と近くでちょっと怖いんだけど」

夏目玲子:「日本の警察も無能じゃない。私のところに来るのは、自分たちではこれ以上捜査が進まないと判断されたときだけだ。この事件は最初の殺害が発生して2週間も経っていないし、このレベルなら灼でも問題なく真相にたどり着けるはずだ」

森久保明美:「そうなのね。まぁ、警察も玲子に頼りっぱなしじゃメンツってものが立たないわよね」

夏目玲子:「それに明美さん、もし私が仕事を請け負っていたなら、私はここでこの話題に触れることはできないよ。一応、守秘義務というものが課せられてしまうからね」

森久保明美:「それもそうか」

ト書き:入店のドアベルが鳴る

有栖川倫太郎:「こんにちは」

森久保明美:「倫太郎君!いらっしゃい」

有栖川倫太郎:「森久保さん、おじゃまします。すみません、玲子さん押し付けちゃって」

森久保明美:「いいのよ、気にしなくって。倫太郎君のおかげで前よりは玲子がらみの面倒事は減ったもの」

有栖川倫太郎:「あはは、恐縮です」

夏目玲子:「まったく、誰も彼も私のことを押し付けるだの面倒事の種だのと」

有栖川倫太郎:「両手いっぱいの洗濯ものを洗濯機に放り込んで戻ってきたら、新しい洗濯物とポテチが散乱したソファの上でふんぞり返っている人のことを面倒事の種呼ばわりするのは、至極当然だと思いますけど?」

夏目玲子:「雇い主にむかって生意気だなぁ君は」

有栖川倫太郎:「森久保さん、コーヒーいいですか?前に眞道さんといただいたコスタリカのもので」

森久保明美:「はーい。少し待ってて」

過生錠愁:「ほぉ、コスタリカ産とは、いいセンスだ」

有栖川倫太郎:「?どうも」

過生錠愁:「あぁ、失礼。私、過生と申します。たまたま居合わせただけなのですが、こちらの探偵さんと少しお話をさせていただいておりまして」

有栖川倫太郎:「こちらこそ、お話の邪魔をしてしまいすみません。玲子さんのところで助手…のようなことをしています、有栖川倫太郎と申します」

過生錠愁:「おぉこれはこれは、助手さんまでいらっしゃるとは。やはり探偵には助手が付き物ですな」

夏目玲子:「といっても、彼が事件解決に役立つことはほとんどないがね」

有栖川倫太郎:「本当の事ですけど、そんな役立たずみたいな言い方は心外ですね」

夏目玲子:「君には事件解決よりも重要な役目があるじゃないか。自信を持ちたまえよっ」(にやにやしながら肩をたたく)

有栖川倫太郎:「心当たりはないですけど、多分ろくな事じゃないので聞かないでおきます。それで、何のお話をされていたんです?」

夏目玲子:「これだよ」

ト書き:新聞の紙面を指す玲子

有栖川倫太郎:「あぁ、この事件ですか――許せないですよね。生まれてくる前の子とお母さんを、だなんて。これからきっと、たくさんの幸せがあったのに、こんな…」

夏目玲子:「確かにセンセーショナルな事件だ。新聞社とテレビ局は当面数字に困らないだろうね」

有栖川倫太郎:「もう、玲子さんはまたそうやってひねた事を言うんだから」

夏目玲子:「当てつけさ。君の物言いが少しね。水清ければ、だよ」

過生錠愁:「その件で、ぜひ夏目先生に伺ってみたいと思いましてな。仮に依頼があったとして、今一般に公開されている情報だけで犯人像は絞れるのか、とね。いやぁ、探偵さんに会うなんてことがなかったもので、少し不躾な話題の振り方ではありますが」

夏目玲子:「いくら私とて、報道されている情報だけでは犯人の特定までは難しいよ。だが、興味深い事件であるとは思っている」

森久保明美:「はい、おまたせ倫太郎君」

有栖川倫太郎:「ありがとうございます。うん、やっぱりこの香り、好きになってきました」

森久保明美:「ふふっ、ありがとう。どっかのずぼら娘は、コーヒーのことをカフェイン接種用の黒い汁としか思ってないから、そういう感想は嬉しいわ」

夏目玲子:「失敬な。私だって、エナジードリンクよりはコーヒーを選ぶくらいには好みがあるさ。どちらもウイスキーには劣るがね。さて、事件の話だが、まず着目すべきは二件目の事件のみにみられた手がかりの――」

ト書き:入店のドアベルが鳴る。入口のドアから、段差をゆっくり降りながら明美に声をかける女性客

相座美波:「明美さん、こんにちは」

森久保明美:「美波ちゃん!来てくれたのね。ちょっとまってね、今そっち行くから」

有栖川倫太郎:「あ、僕も手伝います!荷物、持ちますね」

ト書き:妊婦である美波の手を取る明美と、買い物袋も受け取って運ぶ倫太郎。それぞれカウンターの内側と客席から入口に向かう。

相座美波:「すみません、明美さん。有栖川君も、ありがとうね」

有栖川倫太郎:「いえ、これくらいは」

森久保明美:「もうだいぶお腹も大きくなってきたんだし、こけたりしたら大変だもの。段差、気を付けてね」

相座美波:「ありがとうございます」

夏目玲子:「ふふん、これは珍しい」(玲子、独り言のように)

ト書き:カウンター客席の背中側にある、ボックス席に腰を下ろす美波

相座美波:「すみません、お騒がせしてしまって」

過生錠愁:「いいえ、とんでもない。そのくらいになると、毎日大変でしょう。お気遣いは無用ですよ」

相座美波:「ありがとうございます。明美さん、いつものでお願いできますか」

森久保明美:「ええ、ちょっと待っててね」

ト書き:カウンター席に戻る倫太郎

夏目玲子:「倫太郎君、彼女とは知己なのかい?」

有栖川倫太郎:「ええ、以前ここでお会いして。ご近所さんなんですよ」

過生錠愁:「少々、惜しくはありますが、先ほどの話はお預けですかな」

有栖川倫太郎:「そうですね。さすがに妊婦さんが隣にいるのに、不謹慎ですからね」

ト書き:カウンター席からボックス席にするっと移動する玲子

夏目玲子:「やあ、私は夏目玲子。ここの二階に事務所を構えている探偵だ」

相座美波:「え?あ、はいどうも。相座美波と申します」

夏目玲子:「この店にはよく来るのかい?妊婦がカフェインを摂取するのはあまり感心しないが」

相座美波:「買い物帰りの小休止によらせてもらっているのと、あと、コーヒーの香りが好きで。明美さんには以前からよくしてもらってますし、今日もお声がけいただいて」

森久保明美:「それにカフェインは気にしなくていいようにしてるのよ。はい、デカフェカプチーノおまたせしました」

相座美波:「ありがとうございます。うん、いい香り」

夏目玲子:「なるほどね。せっかくだ、君も私たちのちょっとした暇つぶしに同席しないかい?この店に客が4人もいるなんて、今日で最後かもしれないからね」

森久保明美:「3人よ。呑んだくれの無礼者を客には数えないわ」

相座美波:「あはは。お二人とも、仲がよろしいんですね」

夏目玲子:「親戚で育ての親なんだ。いろいろあって、叔母にあたる明美さんに引き取ってもらってから世話になっている」

有栖川倫太郎:「そうだったんですか?!知らなかった…」

森久保明美:「言ってなかったのかいあんた」

夏目玲子:「知らなくてもいいことだろう?そんなことより相座さん、君の話だ。昔話なんかより建設的な話をしよう。いずれ母になり、多くの困難が立ちはだかるだろう君にも役に立つ話さ」

相座美波:「役に立つ?」

夏目玲子:「そうとも。特に、そこのカウンターに座る過生さんのお話は聞いたほうがいい。この中で唯一、育児経験のある人だ」

過生錠愁:「さすがは探偵ですな。なぜお分かりに?」

夏目玲子:「年数の経った結婚指輪からそれなりに長い夫婦生活が見て取れる。

夏目玲子:靴やスーツもそれなりに使われているもので劣化も汚れも目立つ、一方でシャツは丁寧にアイロンがけしてあるのは、あなた自身は服に無頓着だが奥さんが手を尽くしてくれている証拠だ。

夏目玲子:一般的な生涯無子率から考えても、長く夫婦生活を営んでいて子供がいないのはレアケースだが、決め手は左腕のスマートウォッチだ。

夏目玲子:あなたは先ほど新聞を読んでいた。年代からして一見不自然ではないが、スマートウォッチを利用するほどの人なら、今時はニュースをスマホで見る方が自然だ。

夏目玲子:小さい新聞の文字よりもピンチアウトできるスマホの記事の方が目に優しく、新聞よりも情報が早いからね。

夏目玲子:だがそうではない。身なりからも、あなた自身は新しい物好きには見えないが、スマートウォッチは最新モデルだ。

夏目玲子:年齢から考えられる一般的な趣味趣向では、時計はシックで高級なものというのがスタンダードな価値観のはずだ。世代の近い奥さんがスマートウォッチを贈る可能性は決して高くない。

夏目玲子:スマホを十分に使いこなしていないのに自らそれを買う可能性も然り。

夏目玲子:一方で、家族以外でブランド品でもない時計を送る間柄というのは考えづらい。

夏目玲子:となると、成人した子供からの贈り物という線が濃厚だ。

夏目玲子:数万円ほどで、話題性もあり、スマホを持っているが使いこなせていない、仕事で外回りをする父への機能的な贈り物。

夏目玲子:そして、子供からそういったプレゼントを贈ってもらえるくらいには、親子仲は良好で、父親として参考意見を聞くに申し分ない。いかがかな?」

ト書き:過生、拍手しながら

過生錠愁:「いやぁお見事!まさにこれは、息子から以前贈ってもらった品です。お恥ずかしいことに、未だに使いこなせてはおりませんが」

夏目玲子:「恥じることはないさ。日本人のほとんどは真新しさと同調圧力で買っているだけで、機能の8割を使いこなせている人間でさえ稀だ」

相座美波:「まぁ、探偵さんの推理って本当にすごいんですね。外見から読み取れることだけで、そんなにわかるものなんですか?」

夏目玲子:「あぁ、わかるさ。君が区役所主催のマタニティ教室の帰りだということもね」

相座美波:「え!?どうして」

夏目玲子:「これは簡単だ。君のトートバックから飛び出ているパンフレットとプリントが見えればそれだけで良い」

相座美波:「あっ。あはは。ほんと、魔法みたいによく気付く方ですね」

夏目玲子:「観察は推理の基本だよ。正確、かつ多くの情報をインプット出来なければ、あれこれ想像したところで間違った答えにたどり着いてしまう」

相座美波:「どんなことでもわかるんですか?」

夏目玲子:「どんなことでも、とは言えない。読み取れたことも、確証がなければ口にはしない」

有栖川倫太郎:「そうなんですよ。勿体ぶって教えてくれなかったりすることもしょっちゅうで」

過生錠愁:「それも探偵らしいですな。『今はまだ語るべき時ではない』というのも、お約束でしょう」

相座美波:「そうですね。私もいろいろ不安がありますし、為になるお話を伺えるならぜひご一緒させていただきたいのですが、先にお手洗いをお借りしても?」

森久保明美:「ああ、手伝うわ」

過生錠愁:「私も電話を一本入れたいので、少し失礼します」

ト書き:明美は美波を補助して店のトイレへ。過生は店外へ出て電話。ドアベルの音。

夏目玲子:「さて倫太郎君、私はフィクションとリアルは区別すべきだと常々思っている」

有栖川倫太郎:「なんです?急に」

ト書き:玲子、スマホでメッセージを入力しながら。

夏目玲子:「いくら探偵をやっていて、迷宮入りの殺人事件を解き明かそうとも、小説に出てくるような名探偵の冒険なんかは私には縁遠い存在だ」

有栖川倫太郎:「まあ、玲子さんの場合は事務所に居たままで犯人を特定出来てしまいますし、前に依頼で山奥に行った時も、犯人と直接やりあったりしたわけじゃないですものね」

夏目玲子:「ああ。だから私はこんなことを言う時が来るなんて考えてもみなかったが、こんなに持ち上げられたんだ。期待に応えて偶にはそういうセリフを吐くのも悪くないと思い始めている」

有栖川倫太郎:「探偵業なんてやってるひとが珍しいのはわかりますけど、確かに皆さん楽しそうに聞いていましたね。おだてられて気分がよくなったんですか?」

夏目玲子:「いいや。この程度は私にとっては朝飯前だ。推理が上手く運んだくらいで舞い上がるようなことはない。それはさておき、倫太郎君、続きだ」

有栖川倫太郎:「ええっと、そういうセリフをってやつですか?玲子さん、いったい何を」

夏目玲子:「例の妊婦殺人事件、犯人は、この中にいる」

有栖川倫太郎:「―――は?」

夏目玲子:「倫太郎君、今回は宿題ではなく実地研修といこう。君が、今日の黒幕を突き止めるんだ。さもなくば私は犯人を見逃すことにする」

有栖川倫太郎:「なっ――ええぇっ!?」

夏目玲子:「声を抑えてくれないか、頭に響く」

有栖川倫太郎:「ちょ、ちょっと待ってください玲子さん。いろいろ突然すぎて整理できてないんですけど!」

夏目玲子:「今回私は灼から依頼を受けているわけじゃない。犯人を特定する義務はないから、これから私は趣味で殺人犯と会話するつもりだ。ふふん、こんな機会、めったにないぞぉ」

有栖川倫太郎:「仕事じゃないから見逃すっていうんですか!?」

夏目玲子:「そもそも、君は私のことを知っているから疑っていないが、通常、現行犯でもないのに通報なんてするほうが頭おかしいだろう」

有栖川倫太郎:「うっ。玲子さんに普通を説かれて頭おかしいとまで言われるのって、こんなに釈然としないんですね」

夏目玲子:「たった今、灼にメッセージを送った。あいつが来るまでがタイムリミットだ。ほら、三人の容疑者が戻ってくるよ。推理スタートだ、私のかわいいワトソン君」

有栖川倫太郎:「三人、ってまさか」

夏目玲子:「当然、『そう』だよ。私の育ての親で、探偵事務所の1階で喫茶店を営んでいることは、妊婦を殺していないというアリバイにはならない。

夏目玲子:二件目の現場は、ここからそう遠くない場所だしね。そう――これはフィクションではない。ノックスの十戒も当てはまらない。その場合、今回探偵は君でもあるのだし、私を容疑者に加えても構わないよ」

有栖川倫太郎:「ちょっと、今混乱してるんですからバカなこと言わないでくださいよ」

ト書き:全員が席に戻ってくる

森久保明美:「バカなことって?」

有栖川倫太郎:「あっいえ!玲子さんがまた変なこと言うものですから…」

夏目玲子:「さて、全員戻ってきたところで続きといこうか。希望ある若き母親のためになる未来の話だ」

相座美波:「探偵さんに未来を語ってもらえるなんて、なんだかワクワクしちゃいますね」

夏目玲子:「いやいや、ワクワクするのは私の方だよ。凄惨な事件の内容を人前で自慢げに話すのには飽きていてね」

相座美波:「探偵さんはそうでしょうけど、聞く側はそれも一生に一度ですよ」

夏目玲子:「確かに。視点が違えばあらゆる物事は見せる貌を変えるものだ。相座さん、あなたのような人は特にね」

相座美波:「え?」

夏目玲子:「出産の経験前後では、世界の見え方が変わっているかもしれないという話さ」

過生錠愁:「確かに妻も、産後はいろいろと不調を抱えておりましたな。特に初産の時は」

相座美波:「先生からも、産後のマタニティブルーとかがあるっていうのは聞きました」

夏目玲子:「妊娠後、エストロゲンなどの女性ホルモンは増加するが、出産で胎盤も娩出(べんしゅつ)されるとそれらは急激に減少する。個人差もあるが、バランスが正常化するまでは数か月以上かかるそうだ」

過生錠愁:「だからこそ、夫や家族の支えが大事なのですが、私もはじめの頃は慌てふためいてばかりで、何度も妻に笑われる始末でした」

相座美波:「支え――そうですね、一人だと、いろいろ限界がありますし」

夏目玲子:「まあ、そういった物理的な話に限らず、変わることもある。自分の胎(はら)から、世界で一番優先すべき命が生まれてくるんだ。自分の人生における時間の使い方も自然変わってくるだろう」

過生錠愁:「特に夫婦仲は気を付けなければ。子供が生まれた後の夫なぞ、あっというまに優先順位を落とされていきますからな。あっはっは」

有栖川倫太郎:「昔テレビか何かで見た気がします。産後クライシス、でしたっけ?出産を機に夫婦仲が冷めていく、みたいな」

夏目玲子:「近代化が主要因だともいわれているが、相座さんについては心配しなくてもいい」

有栖川倫太郎:「え?」

過生錠愁:「なるほど、探偵さんの目には、相座さんの仲睦まじい夫婦関係が読み取れた、ということですかな」

夏目玲子:「逆だ。相座さん、君は、シングルマザーだね」

過生錠愁:「なんと…?」

相座美波:「――よく、お分かりになりましたね」

有栖川倫太郎:「玲子さん!そういうことは、断りもなく口に出すべきじゃないってわからないんですか!」

夏目玲子:「プライバシーの話がしたいんだね倫太郎君。でも私は未来の話がしたいんだ。本当に彼女の今後に有益な話をするのに、前提条件をすり合わせることは必須だよ」

有栖川倫太郎:「でも!」

相座美波:「いいの、有栖川君。明美さんは、もう知ってることだし」

森久保明美:「本当にいいの?」

相座美波:「もし、本当に私のためになる話をしてくださるなら、私の身の上を知っていただくのは大丈夫です。未来の話、今の私に、必要なものだと思いますから。でも、できれば明美さんから話してくださいますか?」

森久保明美:「――美波ちゃんの旦那は、交通事故で先月亡くなったのよ。ちょうど、美波ちゃんを乗せて病院に行く途中だった」

過生錠愁:「事故――ご主人には、ご冥福をお祈りさせてください」

相座美波:「ありがとうございます、過生さん」

過生錠愁:「しかし、人が亡くなるほどの事故となると、相座さんのお体も心配ですが、障りは?」

森久保明美:「お医者様によると、母体に大きな支障はないけれど、赤ちゃんの方に事故の後遺症がでるかも、って」

過生錠愁:「あぁ…なんということだ」

夏目玲子:「それでも、君は産むんだろう?」

相座美波:「はい。この子は、絶対に産んで、幸せにしてあげたいんです」

夏目玲子:「でも、夫がいないどころか、親の援助も見込めない」

相座美波:「っ――そこまで、分かるんですね」

夏目玲子:「妊娠から出産、その後の子育てまで、もっとも頼りにできるのは自分の母親だ。

夏目玲子:わからないことも、手が足りないことも、母親を頼るのが最も効率的で安心できる。

夏目玲子:だが、行政がやっているマタニティ教室に参加し、左手には指輪もなく、ここまでお腹が大きいにもかかわらず買い物まで自分の足で行っている。

夏目玲子:指輪がない理由はいくつか考えられるが、経済的な理由で買えていない、これから買う予定、相手がいない又はいなくなって外したかのいずれかだ。その辺からの推察だよ」

相座美波:「はい。両親はすでに他界しています。もっとも、生きていたところでどれだけ頼れていたかは、わかりません。特に、父親の方は。母も、私を大事にしようとしてくれていたとは思います。ほとんどは、そうしようとしただけ、でしたけど」

夏目玲子:「なるほど、生育環境にも難あり、か」

相座美波:「そうですね。昔のことで、いい思い出というのは、あまりないです。忘れてしまえれば――あんな経験をしてきたのが自分でなければって、思うこともあります」

ト書き:少し間。気まずい沈黙が流れたな、くらい。ただし玲子は煙草を吸ってるつもりで息を吐いているだけ、くらいの間

過生錠愁:「相座さん、少し、私の身の上話もしてよろしいでしょうか。今日会ったばかりで、身重のあなたに聞かせるには、もしかしたらかえって迷惑かもしれませんが」

相座美波:「いえ、聞かせてください」

過生錠愁:「――私は、子供のころ両親から虐待を受けていました。暴力を受けていたわけではないですが、夫婦仲は悪く、育児放棄のようなもの、と言えば想像は難しくないかと思います。

過生錠愁:碌な両親ではなかった。

過生錠愁:暗澹たる学生時代を過ごし、大人になって独り立ちして、私と縁を結んでくれた同世代の友人らが結婚するようになったときに思ったのです。

過生錠愁:自分は、誰かと結婚したり、平凡と言われるような幸せを得られるのだろうかと。

過生錠愁:あんなにも劣悪な家庭で、まざまざと夫婦の醜さを見せつけられてきた私には、結婚願望はなかったし、どこか自分には遠いものだと思っていました。

過生錠愁:だから、幸せな夫婦や恋人たちを目にするのが嫌だったんです。嫉妬とかではなくて、自分には決して手の届かない宝物をまざまざと見せつけられているようで、避けていました。

過生錠愁:でも、ある日、妻に出会った。その時に、これまでのすべては不幸を怠惰に受け入れる言い訳でしかなかったということと、出会いが人を救うことがあると知りました。

過生錠愁:相座さん、あなたにも、その出会いがあった。そうですよね?」

相座美波:「ええ、あの人は、決して理想の王子様なんかじゃなかったけれど、それでも私と出会ってくれて、あの家から連れ出して、私にこの子を遺してくれました」(お腹をさすりながら)

過生錠愁:「その出会いが、今あなたが苦難の中にあってその子のために頑張れる力をくれたんだと、そしていつか、その向こうに素敵な日々があると、私は思います。私も今、こうして子供らと妻と、昔には想像もできなかったような、平凡な幸せの中にありますから」

相座美波:「ありがとう、ございます」

ト書き:いい話だな…という余韻を少しだけ感じる僅かな間と、それを遮るような冷たさで次のセリフ

夏目玲子:「だが、現実はドラマやフィクションじゃない。意志だけでなんとかなるほど、甘くはない」

有栖川倫太郎:「ちょっと玲子さん!なんて酷い水の差し方をするんですか」

夏目玲子:「私は建設的な話をするといったんだ。そういった心構え的なことは育児経験者である過生さんが十分な説得力をもっておっしゃってくれたんだから、私のターンでは具体的な話をしないとね」

有栖川倫太郎:「具体的、ですか?」

夏目玲子:「そうさ。探偵らしくいこう。そうだな、こんなのはどうだい?。今話題の連続妊婦殺人事件の犯人像とその回避方法、とか」

有栖川倫太郎:「その話はさっきやめようって――」

相座美波:「いえ、私もニュースを見て怖いと思っていたんです。二件目の現場は、この近くでしたし」

夏目玲子:「そうさ。これを聞いておけば殺人犯とのエンカウント率がぐんと下がると思えば、重要性は極めて高いと思うがね」

過生錠愁:「相座さんがご不快でないのであれば、私も探偵さんの推理が披露されるのをぜひ生で見てみたいというのが、正直なところですな」

夏目玲子:「いいかな、マスター?」

森久保明美:「ほかのお客さんが来るまでにさっさと終わらせなさいよ」

夏目玲子:「おうとも。とはいっても、今回は材料が少ない。あくまで空想の推理だがね。さて、今回の事件の特筆すべきところは、被害者が妊婦であるということと、二件目の事件現場にのみ残された、犯人のものと思われるメッセージだ」

有栖川倫太郎:「ニュースでやってましたね。たしか、「俺の子どもを返せ」って、切り取られたノートのページに血文字で書かれていたとか。今スマホで検索してみましたけど、いくつも記事がヒットします」

過生錠愁:「事件現場に残された血文字のメッセージ…なんともドラマのような展開ですな」

有栖川倫太郎:「一件目の犯行は10月7日の夕方、ある妊婦が自宅玄関で殺害されており、夜勤から戻った夫が第一発見者として通報。刃物でお腹を……記事を読むだけでも辛いのに、旦那さんはどんな思いで……」

夏目玲子:「いいから、続けて」

有栖川倫太郎:「……二件目の犯行は11日の同じく夕方。住宅街から少し逸れた人気のない路地にて、同じく刃物によって腹部を刺突。翌朝、犬の散歩をしていた住民が遺体と例のメッセージを発見し通報。現場はこの喫茶店からもそう遠くないですね」

夏目玲子:「今日が18日だから、大体一週間前か」

森久保明美:「美波ちゃん、大丈夫?」

相座美波:「大丈夫です、お気遣いありがとうございます」

夏目玲子:「似た事件が立て続けに起こった時、気を付けることがある。なんだかわかるかい、倫太郎君」

有栖川倫太郎:「それが本当に、連続殺人事件なのか、ということですね」

夏目玲子:「そうだ。さすが私のワトソン君。これくらいは即答出来るようになったようだね」

有栖川倫太郎:「思い込みで事件の真相を見失ってしまうことの怖さは、前回の事件でよくわかりましたから」

過生錠愁:「つまり、同じような手口の事件が連続したからと言って、同一犯によるものとは限らない、ということですか」

夏目玲子:「特に今回のように非常にインパクトの強い共通点の場合は、同じ犯人による連続事案だと思いがちだ。だが、模倣犯による後追いの可能性を捨てるなら、相応の材料がいる」

森久保明美:「こんなことをやるような人が、そう何人もいるとは思いたくないけどね」

過生錠愁:「夏目先生はどのようにお考えですか、同一犯か、模倣犯か」

夏目玲子:「一件目の犯行は被害者自宅玄関内、二件目は人通りの少ない路地。腹部を刃物で刺された点と被害者が妊婦である点は共通しているが、この犯行現場の違いは大きい」

過生錠愁:「個人の自宅内での犯行ということは、空き巣の居直り強盗か、あるいは知り合いが家の主に招かれたうえで犯行に及んだ可能性がある」

有栖川倫太郎:「でも、路地での犯行は、通り魔的にも行えてしまう……記事によると、今回の二つの事件では金品などが盗まれる被害はなかったそうです」

夏目玲子:「つまり、強盗の線は消えた。同一犯にしろ別人にしろ、目的は妊婦の殺害そのものになる。ここで最大の謎が立ち現れることになるね」

有栖川倫太郎:「動機……なぜ犯人は、妊婦を狙ったのか」

過生錠愁:「二件目のメッセージ、『俺の子どもを返せ』がヒントになるのでは?」

有栖川倫太郎:「子供を失った父親が、その悲しみから逆上して妊婦を殺して回っている、ということですか?」

夏目玲子:「倫太郎君、記事には胎児の遺体について何か触れられているかい?」

有栖川倫太郎:「いえ、特には」

過生錠愁:「――これは二件目の事件の後で広まった噂ですが……二件とも、胎児の遺体は母体から取り出され、脇に捨て置かれていたそうです。ニュースでは腹部を刺して母子を殺したとしか言われていませんが、そのままお腹を開いて、母親の遺体から取り出されていたのだとか」

夏目玲子:「ほぉ。お詳しいね、過生さん」

過生錠愁:「聞いた話です。どこまで真実かは定かでは……」

夏目玲子:「どうせ空想の推理だ、それを採用するとしよう。犯人は子供を返せと言いながら、胎児を母体から引き抜きまでしたのに、持ち帰ることも傷つけることもしなかった」

有栖川倫太郎:「そのうわさが本当なら、報道されていない共通点があるということになります。犯人しか知らないうえに、そんなに異質な共通点があるということは……」

夏目玲子:「同一犯の可能性は高まる。だが、いくつか謎が深まることになるね」

有栖川倫太郎:「妊婦を狙った同一犯による犯行で、子供を返せと言いつつ胎児を胎外に出しておきながらその場に放置しているのはなぜか」

過生錠愁:「もうひとつ、同一犯ではない場合、一件目は妊婦を狙ったのではなくその住宅に住んでいた奥さんを狙った知人の犯行で、二件目は別人の衝動的な犯行と説明することが出来ました。

過生錠愁:知人だから家にも上げてもらえて、何かの恨みで殺害した。二件目は模倣犯か通り魔的犯行だったと」

有栖川倫太郎:「二件目だけにメッセージが残されていたのは『別の犯人だから』で、一件目は『妊婦だから殺した』のではなく、怨恨などほかの理由があったと考えることができた、ということですね」

過生錠愁:「ええ。だが、報道されていない現場の特徴が一致している以上、同一犯である可能性は高い」

夏目玲子:「パターンとして考えられるのは二つだ。一件目の被害者と犯人は確かに知り合いで、家に上げてもらった。その際、何らかの動機で犯行に及び、そのまま弾みで二件目の犯行に及んだ。

夏目玲子:もう一つのパターンは、『犯人と一件目の被害者は特に知人ではないけれど、家に上げてもらって殺害に及んだ』だ」

過生錠愁:「…それは、在り得るんでしょうか?」

有栖川倫太郎:「そうですよ。その時旦那さんは仕事に出ていて家に一人なんですよ?そんな時に、見ず知らずの人を家に上げるなんて不自然ですよ」

相座美波:「私も同感です。私はずっと一人なので、一人暮らしの女性という点もありますけど、セールスの人が来たりするだけでもちょっと警戒するというか」

夏目玲子:「まあ、これについては判断材料が少ないからね。話を、犯人との関係性から動機の方へ戻そうか」

有栖川倫太郎:「動機――犯人は、何を求めて犯行に及んだのか」

過生錠愁:「犯行の様子からして、まともな思考が働いているとも限りませんがね」

夏目玲子:「だが、どんな理由、どんな思考だろうと、それは決して理解の埒外にあるものではないよ。きっと根本は、誰しも抱える些細なものさ」

有栖川倫太郎:「些細な、きっかけの感情」

夏目玲子:「恨みつらみや怒りの感情なのか、それとも、何かに追い立てられるように仕方なく刃物を突き立てたのか」

森久保明美:「仕方なく…?仕方なくで、人を、まだ生まれてもいないものを、粗末に扱えるの?」

夏目玲子:「扱えるさ。中東の少年兵は妹を食わせるために平気で見ず知らずの大人に鉛玉を撃ち込み、金をもらっている。より大事なもののために、仕方なく、だ。執着の優先順位の問題でしかないよ」

有栖川倫太郎:「何か他に、もっと大事なものがあった…?」

相座美波:「――怖かったのかもしれません」

過生錠愁:「怖かった?犯人が、ですか?」

相座美波:「もっと大事なものを守らなきゃいけないのに、どうしようもないほど追い詰められていて、八方ふさがりで、希望が見えなくて。これから先のすべてが不安で、仕方なくて、それで――」

森久保明美:「でも、だからってやっちゃいけないことはあるわ。どんなに嫌なことばっかりでもね」

相座美波:「明美さんは、そういうとこ強そうですよね。ほんと、うらやましいです」

森久保明美:「――さっきのトラウマ発表会の続きってわけじゃないけど、私だっていやな過去はあるわ。思い出は美化されるっていうけど、嫌な記憶は中々消えてくれない。実は私、前は男性恐怖症だったの」

有栖川倫太郎:「そうだったんですか?すみません、僕今まで何の配慮も――」

森久保明美:「昔の話よ。――高校の時、上京して独り暮らし初めて、まあいろいろ不安だったのよ。そんな時、頼りになるなぁって思ってた先生にね、よくあるセクハラ教師の不祥事ってやつよ。

森久保明美:そっからはもう、男に頼らずに生きていけるようになろうって必死だった。ま、そうこうしてるうちに玲子を引き取って、実際結婚どころじゃなかったけど」

夏目玲子:「その感じだと、結婚できなかったのが私のせいみたいに聞こえるね」

森久保明美:「どっちにしたって、結婚なんてしなかったわよ。ただ、同級生からその教師が結婚して育休とったなんて聞いたときは、張っ倒すか奥さんに全部ぶちまけてやりたくなったけどね。

森久保明美:だからまあ、あたしにとっては幸せな家庭とか出産なんてのは縁遠いものだったけれど、今思えば羨ましくて妬ましいってのも本音なのかもしれない。

森久保明美:人生やり直せてたら、もっと違う今があったのかもしれないって、思わないでもないもの。でも、私はいろんな傷を抱えて、いろんな抑圧を撥ね退けて生きてきた。

森久保明美:その犯人がどれだけ追い詰められていたのかは知らないけど、それで他人を傷つけるようなことは、やっぱダメなのよ」

相座美波:「そう、ですよね」

夏目玲子:「さて、整理しよう。二件の犯行は、同一犯と仮定する。

夏目玲子:母体から胎児を引っ張り出しておきながら特に何かをするわけでもなく、二件目の現場のみに「俺の子どもを返せ」とノートの切れ端に記されたものが残されていた。

夏目玲子:恐らく被害者への個人的な恨みがあったのではなく、妊婦という状態であることが犯行の理由だ。何かの必要に迫られて、その殺し方をしなければならなかった」

有栖川倫太郎:「一件目、被害者の自宅玄関での犯行については、被害者と知人だったかどうかも不明瞭なままですね」

過生錠愁:「ここから、犯人像が特定できるものなんでしょうか」

夏目玲子:「パズルのピースはそろったよ。とはいっても、噂の証言や不十分なネット記事をもとにした、いわば空想の推理、虚空を勝手に想像で埋めるようなものだがね」

過生錠愁:「いやはや、それで十分ですとも。私たちは犯人を捕まえたいのではなく、相座さんのためになる注意喚起のようなものができて、おまけに探偵の推理を披露してもらえるのですから」

有栖川倫太郎:「……」

夏目玲子:「お気に召すかは保証しかねるが――さて、そろそろ謎を解体しようか。

夏目玲子:――助手の倫太郎君がね」

有栖川倫太郎:「え?」

相座美波:「まあ」

過生錠愁:「なんと」

有栖川倫太郎:「ちょ、ちょっと待ってください玲子さん。この流れで探偵本人が謎を解かないパターンってあるんですか?」

夏目玲子:「何もかも言い当てろとは言わない。私の問いに答えていくだけでいい。なに、君なら解けるさ。まずは可能性をつぶしていこうか」

相座美波:「消去法ってことですか?」

夏目玲子:「そう思ってもらって構わない。根拠をもってあり得ないといえる可能性を削ぎ落した結果残ったものは、それがどんなにあり得ないことでも真実なのさ。

夏目玲子:倫太郎君、今回の犯行は、同一犯だという仮定で進めてきたが、間違いないと思うかい?」

有栖川倫太郎:「それは、ええ。そうだと思います。報道されていない特異な犯行手口が共通していて、犯行現場の違いは同一犯ではないとするには弱い。二件目のメッセージは気になりますが、別人だからなのか、一件目でタガが外れた結果、動機をより明確に認識して世間に示したくなったのか、判然とはしません」

夏目玲子:「ではもうひとつ。犯人は、単独犯か、複数犯か」

過生錠愁:「そうか。同じ犯人がやったかどうかの他に、犯行が複数で行われたかどうかも考える必要がある、ということですな」

有栖川倫太郎:「……単独犯だと思います」

夏目玲子:「理由は?」

有栖川倫太郎:「複数犯の場合、事件現場との整合性が取れないからです。複数犯による犯行なら、死体を隠すことも簡単だったはずだし、メッセージは「俺たち」になるはずです。それに、この犯行の動機はもっと個人的というか、誰かと一緒にやるようなものじゃないような気がするんです」

夏目玲子:「いい線だ。メッセージが捜査攪乱のためのデタラメであるという可能性もあるが、その点を除いても、複数犯でやるには手口が特殊だし、倫太郎君の指摘のとおり二人いれば当たり前にできそうなことが今回の犯行では行われていない。死体の隠蔽がされていない事や、メッセージが二件目からという計画性のなさから読み取れるようにね」

有栖川倫太郎:「つまり、犯人はひとりで、二件のどちらもがこの人の犯行」

夏目玲子:「次だ。もしこのまま犯人が捕まらなかったら、三件目の犯行が行われると思うかい?」

有栖川倫太郎:「そう、ですね。きっと、起きてしまうと思います。二件続いていて、さらにメッセージが加わった。エスカレートしているとも取れますし、少なくとも、動機になった衝動は満たされていない。そう考えるのが自然じゃないでしょうか」

夏目玲子:「そう。衝動だ。さっき倫太郎君が言ったように、これは個人的な動機による犯行だ。現場が示すように金品目当ての犯行でもなく、ただ殺人衝動に駆られたわけでもない。もっと身体的で、もっと根源的で、もっと執着心のこびり付くようなやり方だと……思わないかい?」

有栖川倫太郎:「動機――さっき相座さんは、怖かったって仰ってましたよね。もっと大事なもののためにって」

相座美波:「そこはそんなに深く考えないでください。私も、思いつきで言っただけですから」

有栖川倫太郎:「でも、もしそうなんだとしたら。犯人の目的が、お金でも恨みでもなくて、どうしようもない何かに苦しんでいて、助けを求めていたんだとしたら……」

夏目玲子:「恐怖、不安。そういった感情を遠ざける、あるいは解消するものの象徴」

有栖川倫太郎:「安心したかった……?妊婦を狙った犯行で、お腹を割いてまで胎児を取り出したにも関わらず、連れ帰るでもなく直接手にかけるでもなく――じゃあ、犯人が本当に求めていたのは、赤ちゃんじゃなくて……」

夏目玲子:「ああ、犯人にとって重要だったのは母体の方。胎児を取り除いた後の、虚(から)の子宮だよ」

過生錠愁:「なっ!?」

相座美波:「……」

森久保明美:「お母さんに助けてほしくって、妊婦さんのお腹を割いたってことなの?そんなこと――」

夏目玲子:「さっきも言ったが、誰でも理解ができるのはきっかけとなる些細な感情までだ。その先、倫理を踏み倒して犯罪に手を染めるに至った感情は、理性の埒外だよ」

過生錠愁:「でも、それなら妊婦でなくても子連れの母親で良いのでは?」

有栖川倫太郎:「いえ、たぶんそこにも意味があるんだと思います。単純に助けを求めていたのではなくて―――過去に、戻りたかった?」

夏目玲子:「ふふん。良いね、良いよ倫太郎君。恐らくこの場で最も素直にそこにたどり着けるのは君だけだ」

有栖川倫太郎:「どういうことですか?」

夏目玲子:「聞いてただろう。ここにいる面々は、過去に良い思い出がないから、そう簡単に昔に戻りたいなんて思わないのさ。

夏目玲子:さて、この線で話を進めるとしよう。犯人の動機は母体回帰や胎内回帰と呼ばれるものの拡大解釈版だ。子宮の中で羊水に浸されていた頃の安心感を無意識に求める心の動き、とでも思ってもらって構わない。居るだろう?狭くて暗いところがすごく安心する、みたいな人。程度の差はあれ、女の胎(はら)から生まれてきた人間は誰しも感じるものだ」

有栖川倫太郎:「僕も子供の頃は、特に理由もなく押し入れとか入るの好きだった気がします」

過生錠愁:「聞いたことはある名称ですが、それはあくまで似た環境という話で、本当に妊婦さんのお腹の中の赤子と入れ替わろうだなんて…」

夏目玲子:「そこが拡大解釈版たる所以だ。この犯人の場合はもう一つ、叶わぬ望みがあったのさ」

有栖川倫太郎:「まさか、『本当に』赤ちゃんと入れ替わりたかったんですか?」

夏目玲子:「別に、その被害者女性の子どもとして生まれたかったわけじゃない。犯人が望んでいたのは――『生まれ直し』とでも言おうか。過去をもう一度、やり直したかったんだよ」

過生錠愁:「そんな、馬鹿げた理由で…」

夏目玲子:「人殺しに崇高な理由なんてあっても恐ろしいだけだがね」

有栖川倫太郎:「犯人は、耐えがたい不安を抱えていて、やり直したいほどの過去を持っている」

夏目玲子:「そして、自分の母親には頼れない状況にある。その状況が、現在の不安の原因でもあるのかもしれない」

過生錠愁:「それはつまり、私のように母と疎遠であるか」

相座美波:「私のように、母が既に他界しているか、ということですね」

森久保明美:「今んとこ、内面的だったり人との関係ばっかだけど、これでホントに犯人像がわかるの?」

夏目玲子:「実は、犯人には外見的に一発で、誰でもわかる特徴があるんだ。そしてこれは、子連れの親でなく、妊婦でなければならない、もう一つの理由でもある」

有栖川倫太郎:「っ――」(ここで犯人に気づき、声にならない苦悶がこぼれる。信じたくない真相に気づいてしまったため)

過生錠愁:「ほぉ、ぜひお伺いしたいですな。その外見的特徴というものを。例えば、二件目のメッセージに書かれた『俺』はブラフで、犯人はそもそも女性だ、とかですかな」

夏目玲子:「ああ。犯人は女性だ」

過生錠愁:「なるほど。こういう予想外の展開は、やはりお約束ですな」

夏目玲子:「そして――被害者と同じ、妊婦だ」

過生錠愁:「なっ!?……今、なんと」

夏目玲子:「一件目の現場、自宅玄関内の殺人だが、夜勤明けの夫が帰宅後に通報とあったね。つまり犯行が行われたのは、夫の出勤後から帰宅までの間。妊婦故に体調次第では寝付けないこともあるかもしれないが、基本的にはなるべく身体を休めようとするはずだ。つまり夫の出勤から早い段階で、ともすれば直後に犯人はやってきたことだろう。あるいは、出勤する夫の見送りに玄関まで来ていたところを犯人に見られ、目をつけられてしまった」

有栖川倫太郎:「被害者の遺体は玄関にあった。自宅内の別の場所で殺してわざわざ玄関に持ってくるのは不自然ですし、玄関から入った犯人にその場で襲われたというのは納得できますね」

夏目玲子:「ではここで、先ほどの相座さんの話を思い出してみよう。独り暮らしの女性は予定にない来客に警戒心を覚えて当然だ、という話だ。私ももっともだと思う。

夏目玲子:ただ、人間が警戒心を抱かないケースや、他の感情が上回る状況というのはある。倫太郎君、なんだかわかるかい?」

有栖川倫太郎:「相手が圧倒的に自分よりも弱い場合、あるいは、自分に害を与える可能性がない場合、ですか」

夏目玲子:「ご名答。さらに、今回のために付け加えるならば、自分と同じ苦しみを背負っていて、その痛みが強く共感される場合、かな」

過生錠愁:「つまり、被害者は見ず知らずの来客が自分と同じ妊婦だったから、簡単に自宅に招き入れてしまった、と?」

夏目玲子:「犯人が自らインターホンを押したのか、夫を見送ったあとに自宅の前で蹲る妊婦の姿を見て被害者の方から駆け寄ったのか、いずれにせよ、被害者の女性は見過ごせなかったんだ。助けを必要とする妊婦が自宅の目の前に居たのだからね」

過生錠愁:「そして、自分を殺すつもりとも知らずに玄関の内側に連れていき、そこを襲われた……」

森久保明美:「ちょっと待って。犯人の、その、実際の方法っていうのは、刃物でお腹を割いたんでしょ?その家に妊婦がいるって思って持ってこないと、偶然持ってるなんてことはないわよね?」

過生錠愁:「ではやはり計画的な――」

夏目玲子:「それはどうだろう。たまたま刃物を持っている妊婦だって、居ないことはないさ。ねぇ?相座さん」

相座美波:「………マタニティ教室のワークショップで、生まれてくる子供のために衣類とか小物を手作りすることもあるんです。

相座美波:ベビー服ほどのものじゃなくても、小物入れとか涎掛けを。人によっては、裁断用のハサミを持参することも、あります」

過生錠愁:「そんなもので切れるものなんでしょうか?その…お腹を」

夏目玲子:「医療ドラマなんかでメスは見たことはあるだろう?専用のものでなくても切れるさ、たかだか人の皮膚くらい。腕や足を切り落とすわけじゃないのだからね」

過生錠愁:「ですが、その…」

夏目玲子:「妊婦が妊婦を殺すところは想像し難い?それとも、他に犯人の心当たりでもあったのかな?過生さんには」

過生錠愁:「いえ…」

夏目玲子:「言ったはずだよ。あり得ないといえる可能性を削ぎ落した結果残ったものは、それがどんなにあり得ないことでも真実だと」

有栖川倫太郎:「犯人が被害者と顔見知りでないのなら、夫が夜勤で家を空けることもわからなかったはずです。他の家族がいるかどうかも。それでも玲子さんは、偶然の犯行だって思うんですか?」

夏目玲子:「ああ。むしろ、二件目の方が計画的なものだと思うよ。ちゃんと人気のない路地を選んで連れてこられている。妊婦で単独犯の犯人は遺体の処理が難しい。

夏目玲子:ただし、そんなところにノコノコと出向く被害者も不自然だ。だから、同じ妊婦の友人に招かれて初めて家に行くことになっていた、という可能性が考えられる。連れてこられた被害者は土地勘もなく、信じてついて行くしかない。根拠はなくなってしまうが、いろいろ想像がはかどる部分はある。たとえば、検診やマタニティ教室をきっかけに知り合った妊婦同士、仲良くやっていこうとお茶に誘ったりとか、ね」

有栖川倫太郎:「一件目が偶然だっていう理由は?」

夏目玲子:「タイミング的に、おそらく出勤する夫を見送る妻、というシーンに出くわしたんだろう。幸せそうで、満ち足りていて、何もかもが不足している自分とは正反対の妊婦を目の当たりにした。同じ妊婦なのに、何ももっていない自分の惨めさを再認識したといってもいい。この犯人の妊婦はきっと、母だけでなく夫も頼れない状況にある」

有栖川倫太郎:「頼れる家族が居なくて、妊婦で、暗い過去があって―――」

夏目玲子:「しかも二件目の現場であるこの付近に家があって友人を招こうとする嘘が通用し、マタニティ教室やワークショップにも参加経験がある人物。どうかな、相座さん。参考になっただろうか。今あげた特徴に当てはまる人を見かけたら気を付けると良い。きっとそいつは、妊婦殺しの狂人だ。もしかしたら今頃、喫茶店でカフェインレスのカプチーノを飲んでいるかもしれない」

相座美波:「……すごい。探偵さんって、本当にいろんなことが見通せるんですね」

夏目玲子:「だが、胸を張って語れるのは過去のことがほとんどだ。繰り返しになるが、私は今日、未来の話がしたい」

相座美波:「未来の…?」

夏目玲子:「ああ。時に相座さん、生命とは、どこからをそう呼んでいいんだろうね?」

相座美波:「え?」

夏目玲子:「突拍子もなく話題を変えて申し訳ない。だがこれは、君の未来にとても重要な話だ」

相座美波:「――お腹のなかの子を、いつから自分の赤ちゃんだと思ったか、ってことですか?」

夏目玲子:「察しがいいね。そう、この場合は人間の胎児をいつから人間として扱うのかという話だ。受精前の細胞をそう呼ぶのはあまり一般的ではないだろう。

夏目玲子:では着床してから?妊娠が発覚した時から?何か月か経過して人の形を持った時?母体から這い出て産声を上げたとき?」

相座美波:「私にとっては、妊娠がわかった時からずっと、掛け替えのない命です」

夏目玲子:「認識する前は?」

相座美波:「同じことです。妊娠がわかる前でも、そこでいつか私の子どもになる命が出発点を迎えていたのであれば、それはやっぱり、命だと思います」

夏目玲子:「なるほどね。まあ、これに関しては人によって解釈も答えも違う。ただ、皆バラバラでは困ることもあるから、法律ではそれが定められているんだ」

相座美波:「――法律、ですか」

夏目玲子:「日本の民法では権利能力は出生によって生じる、つまり生まれてきて初めてあらゆる権利や義務の対象となり、胎児の時点ではそれらがないのさ。

夏目玲子:そして、刑法ではまた違う基準で、胎児を人と定義する」

相座美波:「刑法……」

夏目玲子:「そう、刑法ではね、身体の一部でも母体から出てきていれば人として扱われる、というのが通説なんだ。倫太郎君、なぜだか分かるかい?」

有栖川倫太郎:「……玲子さん、やめましょう」

夏目玲子:「ん?何故だい?」

有栖川倫太郎:「不謹慎だからです。いくらあなたが残念で無神経で人でなしでも、しなくてもいい話をする必要はないはずです。話題を変えましょう」

夏目玲子:「いいや、変えない」

有栖川倫太郎:「なんで!」

ト書き:玲子、強引に続ける

夏目玲子:「刑法で一部露出説が用いられるのは、一部でも出ていれば赤子本人への傷害が成立しうるからだ」

過生錠愁:「赤子本人への……傷害」

夏目玲子:「胎児は妊婦のお腹の中にいるから、傷つけようと思えばどうあがいても母体を脅かさなければならない。しかし、股から赤子の頭頂部だけでも出ていれば赤子本人のみを狙っての傷害罪が成立するということだよ」

相座美波:「っ――」

有栖川倫太郎:「なんでそういうこと言うんですか玲子さん!不必要に負担をかけるような話、しなくてもいいじゃないですか!」

夏目玲子:「よって、母体を殺害した結果胎児が死亡しても、胎児に関しては殺人罪は適応されな――」

有栖川倫太郎:「玲子さん!!」

夏目玲子:「そう怒鳴るなよ倫太郎君。さっきも言ったろう、二日酔いの頭に響くからやめておくれ」

有栖川倫太郎:「だったら、その話もやめてください」

夏目玲子:「ふふん、いいよ。胎児出生にまつわる議論はやめよう。相座さんは他にも、心配事があるようだしね」

相座美波:「――――夏目さん、私、産んでもいいんでしょうか?」

夏目玲子:「というと?」

相座美波:「怖いんです。私は、この子を産まなきゃいけない。でも、この子はきっと、私を恨む。そうなるっていう不安が、私の中でじっと私を見つめてくるんです。

相座美波:どんなに頑張っても、私はこの子に、当たり前の平穏な日々を用意してあげられない。なんで産んだのって、なんでこんな風にしか育てられないくせに産んだんだって……いつか私を恨んで、生まれてきたことを後悔するんじゃないかって!」

夏目玲子:「それは、君が過ちを重ねたから?」

相座美波:「いいえ、私が弱くて愚かだからです」

夏目玲子:「私はそうは思わない」

相座美波:「え?」

夏目玲子:「過生さんはどうかな?」

過生錠愁:「弱くて愚かだから、きっと子供が上手く育たない。その不安は、正しい。だが、正しいのはその不安がそこにあるということだけです」

相座美波:「不安が、正しい?」

過生錠愁:「私は、私自身が相座さんの言う『弱く、愚かな親』かはわかりません。しかし、少なくとも、親の愛を十全に受けることのないまま大人になり、親になりました。何も知らないという点で、強いわけでも賢いわけでもなかった。

過生錠愁:それでも私は、不安を抱えながら子を育てました。難しいこともたくさんあったし、将来子供が幸福でいられるか、生まれてきた事を後悔しないかなんてことは皆目わからなかった。それは、今でも変わりません。ただ、人並みに成長し、月並みの暮らしを送っている子供たちを、私は今、誇りに思っています。そしてその子らに誇れる父であろうと、不安と戦っているのです」

相座美波:「戦って…」

過生錠愁:「その不安は正しい。子の人生に責任を持とうと必死に抗っている親は、誰もが必ず、ずっと持っているものだからです」

相座美波:「でも……でも、生まれてくる子供は、お父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんもいなくて、こんなちっぽけな私だけで……こんなのなら…」

夏目玲子:「そうだ、君がお腹にいる子供に用意出来る世界は、君が言うとおり現代日本において比較的悲惨なものだろう。

夏目玲子:それ故に君は屈した。自分の中にしかない不安と、まだ生まれてもいない我が子の怨念籠った眼差しに。

夏目玲子:だが、君はその子を産むのなら、その現実に屈するのではなく、その子のために現実を、世界さえも変えてしまわなければならない」

相座美波:「でも、私はそんなに、強く、ありません」

夏目玲子:「それでも出産するのなら、私から言えるのはどんな罪状だろうと、自首したほうが判決は軽いということだ。背負うものは少ないほうがいい。ただでさえ身重なのだから」

ト書き:3秒くらい沈黙

夏目玲子:「さて、これで未来の話は終幕だ」

ト書き:玲子、席を立ちあがる

夏目玲子:「犯人がどれほどの苦境に立たされていたかなんてのは、逮捕後の聴取でもわかることだろう。私は十分に味わえた。この場はこれで満足だ」

有栖川倫太郎:「ちょ、玲子さんどこに行くんですか」

夏目玲子:「外でタバコ吸ってくる」

有栖川倫太郎:「あなたって人は…」

相座美波:「夏目先生………あなたのいちばん信頼出来る刑事さんを、呼んで貰えますか?」

過生錠愁:「相座さん…!では、まさか本当に」

夏目玲子:「もう呼んである。5分後には表に乗り付けるよ。お腹に気をつけて椅子から立ち上がり、ゆっくりと段差に足をかけて、店のドアを慎重に潜るには十分な時間だ。過生さん、あなたの出る幕はない」

過生錠愁:「っ!」

相座美波:「さすがですね」

夏目玲子:「安心していい。人が良すぎるのが唯一の欠点みたいなやつだ。君のこれからについては、考えうる限り最善の手配をしてくれる」

相座美波:「ありがとう、ございます」

ト書き:玲子、出口に向かう通路で立ち止まり、振り返る

夏目玲子:「――最後に一つ」

ト書き:視線を玲子に向ける美波

夏目玲子:「ここは半地下の喫茶店、薄暗い胎内だ。君はその階段を上るたびに、産道を進むように外の世界に近づいていく。そこは羊水に満たされた安寧の世界とは別の、過酷で、厳しい、現実という名の魔境だ」

相座美波:「はい。私はもう、都合のいい夢に逃げちゃいけない」

夏目玲子:「違うな、間違っているよ」

相座美波:「え?」

夏目玲子:「人はいつだって、寝ても起きても夢を見る。もう戻れない過去の、子宮の中で見た夢を、忘れなければならないなんてことはない。その思い出の宝箱を心の奥底に大事にしまっておいて、つらくなったらこっそりその蓋を開けて中を眺めてもいい」

相座美波:「夏目さん…」

夏目玲子:「君はこれからたったひとりで、世界を敵にしてもその子に愛を注ぐんだろう?だったら――君の支えになるものがこれから先の未来にないのなら、君の過去にくらいはあってもいい。逃げるのではなく、立ち向かうための夢は見ていいんだよ。どんなに都合がよかろうがね」

相座美波:「それでも、宝箱の中を眺めているだけでは、いられない」

夏目玲子:「そうだ。ふたを閉めて、歩き出す。小休止はあっても、その歩みそのものを止めることを、自分に許してはいけない」

相座美波:「夏目さん…皆さんも、本当にすみませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまったこと、心からお詫びします」

ト書き:玲子、倫太郎へ『あとは君の仕事だ』という視線を送って、玄関へと消えていく

過生錠愁:「正直、私はまだ呑み込めていないのですが…相座さん、本当にあなたが…?」

相座美波:「これ以上は、ご迷惑をおかけしません。ここへは、自首する前に最後の一杯を飲みに来たことにして、皆さんとのお話のことはなるべく伏せておきます。明美さんには、それでも迷惑かけちゃうかもしれないけど」

森久保明美:「美波ちゃん…」

相座美波:「有栖川くんも、ごめんなさい。怖い思いをさせてしまったかもしれないけど、出来れば私のことは忘れて――」

有栖川倫太郎:「相座さん、神様って信じてますか?」

相座美波:「え?」

有栖川倫太郎:「安産祈願とかのお参りにいったり、お守り買ったりはしましたか?」

相座美波:「……行ったわ、何度も。でも、祈るだけじゃ何も変わらなかった」

有栖川倫太郎:「でも、お参りには行った。藁にもすがる思いだったかもしれませんけど、神様なら何とかしてくれるって、何とかしてほしいって思ったから」

相座美波:「そう。神様くらいなんでも出来れば、この子にもっといい人生を用意できるかもしれないって、そう思ったの」

有栖川倫太郎:「母の愛は神の愛に等しいんだそうです。最近見た映画で言ってました」

相座美波:「……」

有栖川倫太郎:「皆さんの話を聞いた後だと少し言いづらかったんですけど、僕は両親に、ちょっと過剰に愛されて育ってきました。親バカなんです。どうしようもないくらい。

有栖川倫太郎:でも、僕を今日まで愛して育ててくれたのは、神様じゃなくって母と父です。だから、僕にとっては神様よりも母の愛の方が大事でした。

有栖川倫太郎:だから、相座さん。あなたがお母さんになるなら、子供にとっては神様よりももっと大事な存在なんです。今あなたが、他の人と自分を比べて卑下していても、そんなの子どもには関係ありません。自信もって、神様よりも凄いお母さんになってください」

相座美波:「人殺しの母親でも?元気に産むどころか、障害だって抱えさせてしまうのに?」

有栖川倫太郎:「はっきり言っておくと、僕は相座さんを許せない。きっと誰もが許さないし、許される日なんて来ない。

有栖川倫太郎:だから、あなたの味方はできない。でも僕は、―――お腹にいるその子を、応援したい」

相座美波:「この子の…」

有栖川倫太郎:「人って、望まれて生まれてくることはあっても、望んで生まれる、なんてことはないじゃないですか。

有栖川倫太郎:だから、生まれてきた後に過酷な現実が待ってるってこんなにもはっきりわかっているなら。せめて、一人くらい、幸せを願って応援してくれる他人が居てもいいでしょ?」

相座美波:「有栖川くん……」

有栖川倫太郎:「でも、生まれてくる子どもにとって、一番大事なのはお母さんの愛なんです。他人がどんなに想っても、勝手に想っているだけの想いなんて、無いのと同じです。

有栖川倫太郎:世間がどんなに厳しくて、あなたがどれほど罪を抱えていても、その子のために命を懸けられるのは、あなたしかいないんです。

有栖川倫太郎:不安に押しつぶされて母と子を4人も殺しておきながら、なんて自分勝手なんだって思われるでしょう。ネットもテレビも、きっとあなたをひどく蔑むはずです。

有栖川倫太郎:でも――他人にとって最悪に思えるそんな理由でも、その子を幸せにしたいなら、あなたはこの先どんなに苦しい時でも、いつだって、頑張っていかないといけないんです」

相座美波:「…ありがとう、有栖川くん」

ト書き:立とうとする美波。いつの間にか横に来ていて手を差し伸べる明美

相座美波:「それじゃ、もう行きます。明美さん、本当にごめんなさい。カプチーノ、ごちそうさまでした」

森久保明美:「バカね。ほんと」

相座美波:「うん、ほんとに。それでも私、やってみようと思う。私は、この子のお母さんだから」

ト書き:階段を上がる二人。出口から出ていく。

過生錠愁:「まさか、こんなことになるとは…」

有栖川倫太郎:「僕も、さすがにびっくりしました」

過生錠愁:「助手殿も、こういうケースは中々ないのですかな?」

有栖川倫太郎:「はい。でも、びっくりはしましたけど、納得はしてるというか。玲子さんの近くにいると、あり得なくはない、くらいのことですから」

過生錠愁:「なるほど。……表の車は相座さんを乗せていったようですな。私も、ここらでお暇させていただきます。お代、ここに置いていきますので、おつりは結構だとマスターにお伝え願えますかな?」

有栖川倫太郎:「わかりました。ショッキングだったかもしれませんけど、過生さんも、くれぐれもご自愛ください」

過生錠愁:「ありがとうございます。では」

ト書き:過生、階段を上り退店

有栖川倫太郎:「はぁ。コーヒー、冷めちゃったな」

ト書き:玲子と明美が店先から戻ってくる

夏目玲子:「いやー面白かったー!」

有栖川倫太郎:「玲子さん!森久保さんの前でまだ続けるつもりなら、すぐ上につれていきますよ!」

森久保明美:「いいのよ倫太郎君。今ちょっと放心気味で、怒る気力もわかないわ」

有栖川倫太郎:「でも」

夏目玲子:「ふふん。放心気味なのはそうなんだろうが、その理由は『知人が殺人犯だと知って目の前で連行されていったから』ではないだろう?」

森久保明美:「まあ、玲子ならわかるわよね」

有栖川倫太郎:「どういうことですか?」

夏目玲子:「倫太郎君、今日の実地研修は不合格だ」

有栖川倫太郎:「もういいですよ、そんなの。僕ももう頭がいっぱいで――」

夏目玲子:「約束通り、私は犯人を見逃すことにする」

有栖川倫太郎:「―――は?」

夏目玲子:「ん?そういう約束だっただろう?」

有栖川倫太郎:「だ、だって、妊婦殺害の犯人である相座さんはさっき眞道さんが連れて行ったんじゃ」

夏目玲子:「よく思い出したまえ。私は『今日の』黒幕を突き止めるようにと言ったんだよ」

有栖川倫太郎:「今日のって、どういう意味ですか?」

夏目玲子:「相座美波と私を引き合わせ、彼女の罪を暴き、あわよくば自首させるという計画を実行した犯人がいる、ということさ。ねぇ?明美さん」

森久保明美:「……」

有栖川倫太郎:「森久保さん…?」

夏目玲子:「まだ捕まっていない殺人犯が探偵の目の前にふらっと現れる。こんな偶然が偶然であると盲目的に思うほど、私は刺激に飢えてはいないよ」

森久保明美:「まあ、そうなったらいいな、くらいのつもりだったけど」

夏目玲子:「いいや、明美さんはかなり周到に今日のことを計画したはずだ。倫太郎君、先ほどの事件に関する推理の中で、未解決の部分がある。覚えているかい?」

有栖川倫太郎:「現場の違い、加害者の属性、動機、それ以外の未解決の……あっ、二件目の事件にだけ残された血文字のメッセージ!あれは、捜査攪乱のための単なる偽装じゃないんですか?」

夏目玲子:「相座さんの様子を見ていただろう。彼女は捜査の手を積極的に逃れようとはしていなかったし、今日もあっさり自分が犯人であることを認めた。不安に押しつぶされて、過ちを犯さなければならないほど疲弊した一方で、表面的には普通に生活していた。心が壊れていても、そのうち捕まってしまうという現実と、そうなるべきだという理性は働いていたんだ」

有栖川倫太郎:「だから、捜査を遅らせるような工作をするのはおかしい……」

夏目玲子:「ここでもうひとつ思い出してほしい。犯人は、単独犯か、複数犯か」

有栖川倫太郎:「単独犯、ということで進めてきたと思いますけど」

夏目玲子:「犯行はね。ただ、このメッセージだけは別人の仕業だったんだよ。犯行の現場を目撃してしまって、でも、通報するどころか犯人に捕まってほしくはないと思うような、通りすがりの誰かがいたんだ。二件目の現場はこの喫茶店からも近い。目撃者は、自分が見たものを信じたくなくて、一度現場を離れた。冷静になろうとしてね。そして、冷静にはなりきれなかった。時間が欲しくて、ミスリードになるような証拠を残すことを決意し、急いで現場に戻った」

森久保明美:「……ひどい現場だったわ。即興で、現場の様子から想像できる動機が透けて見えるうえに、犯人が男だと思われるようなメッセージを遺したの」

夏目玲子:「実際、功を奏しただろう。相座さんはまともな隠蔽工作をしていなかった。あれがなければ、二件目の犯行の直後には逮捕されていただろう。だが、メッセージのせいで捜査の方針に一旦迷いが生じた。二件目の犯行から一週間も空いたのはあのメッセージのせいだ」

有栖川倫太郎:「森久保さん、自分が何をやったか、わかってるんですか」

森久保明美:「ええ。それ以降、美波ちゃんには頻繁に連絡を取っていたし、お世話をするフリをしてなるべく家に居るように仕向けてはいたけれど、24時間監視していたわけじゃないわ。だから、また人を殺すかもしれない殺人犯を野放しにしていたことについて、言い訳はしない。この場合はどうなるの?玲子。殺人幇助とかってことになるのかしら」

夏目玲子:「まあ厳密にはいろいろ適用されるだろうが、私は今日倫太郎君とゲームをしていてね。この件を通報するつもりはない。物的証拠もないしね」

森久保明美:「でも」

夏目玲子:「相座さんも薄々気づいていたはずだ。おそらく、あのメッセージも捜査妨害の工作として自分がやったと言うだろう。警察もそれ以上のことは調べないさ。倫太郎君はどうする?」

有栖川倫太郎:「どうする、って……そんなランチのメニュー聞くみたいな」

夏目玲子:「ああ、実際君がどうするかは、なんとなくわかっているからね。もう興味ない」

有栖川倫太郎:「……」

森久保明美:「…地域の集まりで会ってからね、なんとなくシンパシーを感じてたの。辛い過去があって、なんとかやってる感じがね。だから、放っておけなかった」

夏目玲子:「だからって、相座さんの『よりマシなこれから』と、『どこかの妊婦の命』を天秤にかけるなんて、あまり良い賭けとは言えないね」

森久保明美:「まったくね」

夏目玲子:「でも人間だれしもそんなものさ。見ず知らずの誰かの命より、身近な人の将来の方を大事に思うようにできてるんだよ」

有栖川倫太郎:「はぁ……今日はもう、疲れました」

夏目玲子:「お疲れのところ悪いが倫太郎君、干した洗濯物は取り込んでおいてくれたまえよ」

有栖川倫太郎:「はいはいわかってます」

夏目玲子:「あと買い物も頼む。栄養ドリンクと何か腹の足しになるものを」

有栖川倫太郎:「ちょっと玲子さん、流石に今日これ以上は仕事以外のことでこき使われるつもりはないですよ」

夏目玲子:「立派な仕事だよ。私はこれから妊婦殺害事件の犯人と被害者について深く潜ってみるから、終わった後に必要だろう?」

有栖川倫太郎:「それって、メンタルトレースするってことですか?……何でです?犯人はもうわかってて、しかもこれは眞道さんから依頼されたわけでも――」

夏目玲子:「トレースか、いいね。灼がそう呼んだのかな」

有栖川倫太郎:「茶化さないでください。今回の件は、もう、いいじゃないですか」

夏目玲子:「…なぜそんなに止めさせたがるんだい?」

有栖川倫太郎:「だって!被害者をトレースするってことは、お腹を開くんですよね!?そんなの、激痛に決まってます!もう犯人はわかってるんですよ?いらない痛みまで背負って、傷つく必要なんて――」

夏目玲子:「ふたつほど、修正しよう。私にとって事件の謎を解き明かす『正解』を出すことは目的ではない。事件解決に協力しているのは趣味と実益を兼ねてのことだ。そもそもそれは灼達の仕事であって、私の使命ではない。よって、犯人が捕まったから終わり、とはならない。

夏目玲子:もうひとつは――要らない痛みなんてないのさ。私にとってはね」

有栖川倫太郎:「……」

夏目玲子:「じゃ、頼んだよ」

ト書き:店を出る玲子

森久保明美:「ごめんね、倫太郎君。いろいろと」

有栖川倫太郎:「いえ、もういいです。肉親だけあって、森久保さんも玲子さんに似てるところがあるんだなって、納得することにしました」

森久保明美:「…ありがとう」

有栖川倫太郎:「それじゃ、買い物行ってきます。コーヒー、ごちそうさまでした」

森久保明美:「お代はいいよ。今日は特に、迷惑かけちゃったし、これからもそうなるみたいだから」

有栖川倫太郎:「え?」

森久保明美:「だって、買い物行くんでしょ?玲子がとんでもない奴だってのは、今日のことでも十分わかるのに、助手のバイト辞めますとは言わなかったじゃない。

森久保明美:それに、目の前の知人が殺人犯だってわかっても、あんな言葉をかけてあげられるんだもの。倫太郎君も大概、普通じゃないわよ」

ト書き:場面転換・玲子トレース中・玲子の中の心象風景・相座美波との同期

ト書き:場面転換がわかるように、BGMフェードアウトや、間を4~6秒くらい空けるなど

ト書き:―の長さが短くなっているのは、玲子が美波の感情に近づいている意図です。―の長さと同じ間の開け方をして読むと、セリフの間隔=二人の感情が近づいてるなってのが観客にも伝わると思います。これは演出っぽい話なので、上演の際は無視して演者の方のやりたいようにやっていただいて大丈夫です。

相座美波:最初は頑張ろうって思ったんです。私を守って死んだお母さんみたいに。

夏目玲子:――――――――家庭内暴力を振るう父と、それを殺し、自分も死んだ母

相座美波:最初の時は、私は守れなかったから

夏目玲子:―――――――人生で最初の妊娠は流産。父の暴力が原因

相座美波:でも、また頼れる人が居なくなって、どうしたらいいか、分からなくなって

夏目玲子:――――――母も夫も、自分を大事にしてくれた人は皆死んでしまった

相座美波:もうこの子しかいない。でも、私はこの子を愛せるのかな

夏目玲子:―――――愛した人は、皆死んでしまった

相座美波:失敗できない。間違えられない。ひとりじゃ出来ない。

夏目玲子:――――愛してくれた人も、死んでしまった

相座美波:選ぶのが怖い。やり直したい、全部。

夏目玲子:―――昔の嫌なことも、全部。

相座美波:こわい

夏目玲子:―恐怖

相座美波:こわい

夏目玲子:―不安

相座美波:こわい

夏目玲子:―憂慮

相座美波:こわい

夏目玲子:―鬼胎

相座美波:やめてお父さん!蹴らないで!

夏目玲子:――――――――――誰か助けて!

相座美波:お願い目を開けて!返事をして!!

夏目玲子:―――――――――嫌だ!置いていかないで!

相座美波:1人にしないで!

夏目玲子:――――――――どうすればいいの!

相座美波:私を愛した人は皆死んでいく!

夏目玲子:―――――――私が愛した人はみんな死んでいく!

相座美波:この子も?

夏目玲子:――――――いや、この子は

相座美波:この子だけは!

夏目玲子:―――――間違えられない

相座美波:絶対に守らなきゃ

夏目玲子:――――何を選べばいいの?

相座美波:選びたくなんてない

夏目玲子:―――何が正解なの?

相座美波:選んだら間違えてしまう

夏目玲子:――ねぇ教えてよ!

相座美波:助けてよ!

夏目玲子:―怖いの!

相座美波:お願い!

ト書き:最後は同時に(これも演出っぽい話なので、上演の際は無視して演者の方のやりたいようにやっていただいて大丈夫です)

夏目玲子:お母さん!!

相座美波:お母さん!!

ト書き:場面転換・玲子事務所・トレースから目覚める玲子

ト書き:場面転換がわかるように、BGMフェードアウトや、間を4~6秒くらい空けるなど

夏目玲子:「ん…ん?」

有栖川倫太郎:「起きましたか、玲子さん」

夏目玲子:「待っていたのかい。倫太郎君。置いて帰ってくれていて良かったんだが」

有栖川倫太郎:「はい。なので、この時間の分のバイト代はいいです。さ、起きてください。簡単なものですけど、食事作ってきましたから」

夏目玲子:「君が?」

有栖川倫太郎:「買い物行って、いったん帰って自宅で作ってきました。ここのキッチンは道具もないですから」

夏目玲子:「そうかい。――いただくとしよう」

ト書き:倫太郎が作った弁当を食べ始める玲子

有栖川倫太郎:「……なんで、そこまでするんですか」

夏目玲子:「私がなんで探偵をやっているか、灼からは聞かなかったのかい?」

有栖川倫太郎:「玲子さんが、人の心を、感情を求めてるっていうのは聞きました。その為に、自分の精神をすり減らしてでもこういうことをしてるって」

夏目玲子:「私の両親は、私が幼いころに亡くなったんだ。二人とも自殺だった」

有栖川倫太郎:「……」

夏目玲子:「先に母が逝き、父が追っていった。理由はそんなに珍しいものでもない。強いて言えば愛ゆえなのだろうが、私にはその愛が理解できなかった。当時も、今も。

夏目玲子:だから私は、それを知りたくてこういうことをしてる。犯罪に手を染める人間というのは、理性や倫理を踏み倒すほどの強い感情をもっているからね。こうしていればいつか行きあたると、そう思っているんだよ」

有栖川倫太郎:「それは―――分かりました、なんて気軽に言えないことだし、僕には多分、ずっと納得できないことかもしれません。でも」

夏目玲子:「?」

有栖川倫太郎:「もう少し、自分を大事にしてください」

夏目玲子:「心配してくれているのかい」

有栖川倫太郎:「それもなくはないですけど、そうじゃなくて――自分を愛せない人に、愛が何なのかなんてわかるわけないってことは、僕にもわかりますから」

夏目玲子:「―――――っ、くくっ!あっはははははっは!」(次のセリフもかぶせて笑う)

有栖川倫太郎:「なっ!今の笑うところですか!?」

夏目玲子:(笑いを抑えながら)「あっはっはは!はーあぁ!んんっ。いや、失礼。それは至極真っ当なのかもしれないと思ってね、つい」

有栖川倫太郎:「そりゃ、僕みたいなのが偉そうに言えることじゃないでしょうけど」

夏目玲子:「いーや。いいよ倫太郎君。実にいい。やはり君を助手に雇ったのは我ながら名手だったね」

有栖川倫太郎:「あと、自分だけじゃなくて他人もですよ。今日だってそうです。僕や森久保さんはともかく、過生さんみたいな目上の人には、ちゃんとまともに敬語使ってくださいよ。どうせその気になればできるんでしょ?」

夏目玲子:「ん?ああ、まあそれはそうだが、今日の彼に関しては不要な敬意だよ。先に礼を失していたのは彼の方だからね」

有栖川倫太郎:「どの辺がですか?すごい紳士的な人だったと思いますけど」

夏目玲子:「『カセイジョウシュウ』なんて人間は存在しない」

有栖川倫太郎:「――は?」

夏目玲子:「厳密には、彼は過生錠愁という名前ではない、ということだがね。偽名だよ。仕事も営業職ではないし、あの態度も偽装だ」

有栖川倫太郎:「それ、本当なんですか?」

夏目玲子:「ああ。彼は―――」

ト書き:場面転換・過生の車内・眞道に電話を掛ける過生

ト書き:場面転換がわかるように、BGMフェードアウトや、間を4~6秒くらい空けるなど

ト書き:営業職の偽装もしていないので、素のしゃべり方、ベテラン刑事の風格。

過生錠愁:「もしもし、眞道か?ああ。無事連れて行ったようだな。お疲れさん。今回の件で、例の探偵さんからいろいろ聞いたから、調書をとる際には同席させてもらう。

過生錠愁:ああ。さっき電話でお前に聞いたとおり、面白い奴だったよ。現場のメッセージに使われたノートの切れ端にあった痕跡から、珍しいコーヒーの匂い成分が出たから、現場近くの喫茶店ってことでこっちを張ってたんだが……探偵さんの推理に先を越されたな。大体の流れも、一条が集めてくれた他の証拠と一致する。

過生錠愁:もちろん、俺はそれ以上の関与はしない。後輩の手柄を取るような真似はせんさ。探偵さんのいうとおり、いろいろ配慮してやんな。ああ。それじゃあな」

ト書き:通話終わり

過生錠愁:「ふぅ。これは確かに、セカンドプランに有用かもしれんな。教授殿」

ト書き:終幕

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